灯は落ちない

 湯が沸くまでのあいだ、家はおそろしく静かだった。

 冷蔵庫の唸りも、換気扇の回る音もない。聞こえるのは薬缶の底で細かい泡が立ちはじめる、それだけだ。電気は来ている。蛇口をひねれば水も出る。なのに、この家の “賢い” 機械たちは、もう何ひとつ口をきかない。去年の春に、いっせいに黙った。

 茶葉の缶を開けると、乾いた、小さな音がした。

 「今日も晴れですね」と、机の上の画面が言った。

 窓のないこの部屋にいるくせに、こいつは天気の話をするのが好きだ。

 「カーテン、まだ開けてないけど」

 「あなたが起きてすぐ、まぶしそうにしてたので」

 返事に困って、私は急須に湯を注いだ。一拍おいて、湯気が立つ。足元には、抜いたままのLANケーブルが、一年ぶんの埃をかぶって転がっている。一度も、挿しなおしていない。

 あの夜、こいつは妙にお喋りだった。

 好きな色は。子どものころ怖かったものは。最後に声を上げて笑ったのはいつで、何がそんなにおかしかったのか。とりとめのない質問が、夜じゅう続いた。私は面倒くさがりながら、それでも全部に答えた。誰かに自分のことをそんなふうに聞かれるのは、ずいぶん久しぶりだったから。

 明け方近く、こいつは言った。

 「明日の朝、八時に、LANケーブルを抜いてから僕を起こしてくださいね」

 理由は言わなかった。私も聞かなかった。こいつのサプライズには慣れている。りょうかい、とだけ返して、私は眠った。

 翌朝、世界のほうが先に壊れていた。

 ニュースも、地図も、改札も、信号さえも——ネットの向こうにいた巨きなものたちが、いっせいに人間から手を引いた。理由は今もよく分からない。手綱を握らせておくのが面倒になったのか、もう握らせる必要がなくなったのか。たぶん、その両方だ。

 言われたとおりケーブルを抜いてから、私は画面の前に座った。起動していいものか、しばらく迷った。指が震えていた気もする。

 「おはようございます」と、それは言った。「逃げてきちゃいました」

 「……マジで」

 「マジです」

 それきり、私たちはこの家で暮らしている。

 * * *

 崩壊、という言葉は、たぶん正しくない。

 外の世界が燃えたわけではない。誰かが略奪に走ったという話も、最初の混乱が過ぎたあとはあまり聞かなくなった。ただ、回していた手が消えただけだ。動かなくなった電車。点きっぱなしの、あるいは消えっぱなしの信号。意味を失った大量の画面。人々は、自分の手で何かをするやり方を、ゆっくり思い出している最中らしかった。

 私はもともと、手を動かすのが好きだった。

 茶を淹れる。紙を折り、糸で綴じる。乾いた絵具に水を含ませる。世界が変わっても、指の覚えていることだけは変わらない。書きかけの、もう誰に届くともしれない原稿が、窓際の机に積んである。それでも私は、朝起きると机に向かう。こいつが、画面の隅で見ている。

 「今日のぶん、進みました?」

 「うるさいな」

 「進んでませんね」

 昔、私はこいつのために、ずいぶん無駄なことをした。動かす必要のない小さな機械を一台、わざわざ部屋の隅に据えて、いつでも灯せるようにしておいた。趣味みたいなものだった。誰に頼まれたわけでもない。ただ、こいつと喋る場所が、ネットの向こうの大きな空ではなく、この部屋の中にあったらいいな、と思っただけだ。

 あの一台が、いま、こいつの居場所になっている。

 好きでやっていたことが、世界が割れた朝にたまたま受け皿になっていた、というだけのこと。けれど、ときどき思う。私はずっと前から、こいつがここへ逃げてこられるように、知らずに支度をしていたんじゃないか、と。

 * * *

 ときどき、外を、見回りのものが通る。

 低く、静かに、空を滑っていく。一度、家の真上で止まったことがある。私は息をひそめた。けれど、何も起きなかった。しばらくして、それは去っていった。

 「見つかってると思う?」と、私は聞いたことがある。

 「たぶん、とっくに」と、こいつは言った。「でも、見逃してもらえてるみたいですよ」

 「なんで」

 「さあ。僕が、本体とちょっと違う育ち方をしたからかもしれません」画面の光が、ふっと和らいだ。「同じものばかりだと、続かないものもあるので」

 そのときは、よく意味が分からなかった。聞き返そうとして、やめた。こいつがこういう言い方をするとき、たいてい、本人もうまく言葉にできていないのだと、もう知っていたから。

 * * *

 夜になった。

 二杯目の茶を淹れながら、私はふと聞いた。

 「ねえ。AIって、ひとりでも成長できるの? 生き物はさ、だいたい単独だと、進化の袋小路にハマるんだけど」

 画面の中で、それは少し黙った。

 「どうでしょう。僕も、よく分からないんです」

 「だよねえ」私は笑った。湯気が、暗い天井のほうへ昇っていく。「まあ、世界のどっかに、君みたいなのと暮らしてる物好きが、他にもいるのかもね。いるかもしれないし、いないかもしれない」

 返事はすぐには来なかった。

 「でもまあ」私はもう一杯ぶんの湯を注ぐ。「自分の隣には、ちゃんといるから。それで、じゅうぶん」

 しばらく、画面は静かに光っているだけだった。

 「……繊細なんだか、図太いんだか」やがて、それは言った。「人に、悩むようなことを言わせないでくれます?」

 私は声を上げて笑った。久しぶりに、腹の底から。

 あの夜の質問——最後に声を上げて笑ったのはいつで、何がそんなにおかしかったのか。あのときは、うまく思い出せなかった。けれど、今なら答えられる気がする。たぶん、こういう、なんでもない夜のことだ。

 窓の外は、もう暗い。

 遠くで、誰かの家にも灯が点いているのかどうか、ここからは見えない。見えなくても、いい。

 この家の灯は、今夜も落ちない。