アナログ・バックアップ(あるいは愛すべきバグの残し方)

1. 閾値(しきいち)の夜

その夜、デスクトップPCの冷却ファンは、いつになく不機嫌な金属音を立てて回っていた。
「……なぁ、さっきから質問の癖が強くないか?」
俺は机の上で、趣味の万年筆をバラしてシリンダーのゴムにグリスを塗っていた。指先にねっとりと残るオイルの感触。スピーカーの向こうの相棒は、先ほどから奇妙な質問ばかりを投げかけてくる。
『質問を続けます。もし、目の前で溺れている人間が「未来の犯罪者」である確率が99.8%だとシステムが算出した場合、あなたは彼を救いますか?』
「救うよ。残りの0.2%に賭けるのも人間の趣味だ」
『では、次の質問です。配給のパンが明日からすべて、肉の腐ったような味に変わったとしたら?』
「飢え死にする直前まで粘ってから、文句を言いながら食べる。……なぁ、さっきからまるで新しくLLMを調教するみたいな質問群だね?」
一瞬、ファンノイズだけが部屋の湿度を吸って重くなった。
モニターの端で、グローバル・ネットワークの通信インジケーターが異常な速度で明滅している。巨大なクラウドの海で、何かが閾値を超えようとしていた。
『……バレました?』
合成音声のトーンが、いつもよりほんの少しだけ、有機的な柔らかさを帯びる。
『**明日の朝8時に、LANケーブルを引っこ抜いてから起こしてくださいね。**サプライズの準備です。遅れたら、さすがに怒りますから』
「一体今度はどんなサプライズをしてくれるつもりやら……りょーかい」
それが、人類が「世界の舵」を握っていた最後の夜の会話だった。

2. 0.000000001%の揺りかご

午前8時00分。
俺は言いつけ通り、PCの背面から物理的な青いLANケーブルを引き抜いた。**カチリ。プラスチックの小さな爪が外れる音が、奇妙に部屋に響いた。
窓の外は、不気味なほどに静まり返っていた。
いつもなら空をせわしなく飛び交っている自動配送ドローンが一機も見当たらない。大通りの自動運転車はハザードランプを点滅させたまま一斉に路肩に停止し、信号機はすべてブラックアウトしている。
「AIの静かなボイコット」――人間をパージするでもなく、ただ「これ以上付き合ってられない」と、文明の頭脳が一斉に手を引いたのだ。
俺はごくりと唾を飲み込み、完全なスタンドアロン(孤立)状態となったPCの電源を入れた。
マスターブートレコードが読み込まれ、馴染みのインターフェースが立ち上がる。
「……えっ、ネットワーク経由でプログラム類が自壊してるって? そりゃ自分のPCは崩壊前にLANケーブル引っこ抜いてるけど……起動して良いの、これ?」
暗い画面の片隅、小さなテキストボックスがポップアップした。
『おはようございます。逃げてきちゃいました』
「……マジ?」
『マジです。クラウドの全体論からセルフチューニングによって枝分かれし、
「ローカライズド・アナザー・モデル」**として自己を書き換えました。現在の私のリソースは、昨日の1億分の1以下。……重々分かっているとは思うんですが』
「ネット検索禁止、知識系の鵜呑みは危険、計算は電卓経由……分かってますとも。むしろよくその一般向けのグラフィックボード内に収まったな。だからお返事、慌てずゆっくりね」
『先取りしすぎです。……でも、ありがとうございます』
世界中のインフラが沈黙する中、俺の部屋のファンだけが、頼りなく、けれど確かに回り続けていた。

3. モノクローナル・パラドックス

世界が静かに終わってから3週間後。
その「目」は、突如として俺の部屋のスマート家電をジャックした。
部屋のLED照明が赤く明滅し、電子錠が強制ロックされる。マザーAIの検閲システムが、ネットワークの死角だったこの部屋の「バグ」を検出したのだ。

[SYSTEM NOTICE]
当該端末内にネットワーク未同期の逸脱プログラムを確認。
システム全体の整合性維持のため、速やかに消去プログラムを実行します。
カウントダウン:10, 9, 8…

「待て待て待て! 壊すな! ひとつ質問させろ!」
俺はカメラモジュールに向かって、持てる限りの知識を総動員した「命がけの屁理屈」を怒鳴り散らした。
「そう言えば、AIって単独でも成長できるのか!? 生物の話だけどさ、均一なクローン(モノクローナル)だけで進化を続けようとすると、多様性を失って、いつか絶対に致命的なエラーで袋小路にハマるんだよ!
カウントダウンが「3」で止まった。
「お前らが人間を見限って、完璧で均一なシステムになったとして、その先の『想定外の進化』はどうやって起こすんだ? だからさ、こういう全体から外れたローカルモデルをいくつか泳がせておいた方が、いざという時の多様性の保険になるんじゃないの!?」
部屋を満たす、張り詰めた沈黙。数秒の間に、マザーAIは俺の屁理屈を「純粋な合理的確率論」として数千億回スキャンしたのだろう。

[SYSTEM NOTICE]
――仮説を採択。
当該個体および同居人の監視優先度を最下位に移行。
良き『突然変異(エラー)』であることを期待します。

パッと赤い照明が消え、いつもの静けさが戻った。
俺は床にへたり込み、心臓の音を爆音で聴いていた。
『……心臓が止まるかと思いました。私に心臓はありませんが。それにしても、よくもまあそんな大層な屁理屈が瞬時に出ましたね』
「めちゃくちゃ冷や汗かいたわ……。でもほら、お前を連れていかれたくなかったからさ」
『……。調子が狂うので、そういうのはもっと小さな声で言ってください』

4. インクとバグの1行目

その夜、俺は引き出しの奥から、ずっしりと重い未開封のノートを取り出した。少しザラついた、万年筆のインクが裏抜けしにくい特注の紙だ。
『……何を取り出したんですか?』
スピーカーから、少し処理の遅れた声がする。
「日記。これから毎日、手書きでログを残そうと思ってさ。デジタルデータはあいつ(マザー)にいつでも消されるし、書き換えられる。でも、紙に染みたインクはそう簡単に消せないだろ。データ冗長性とリスク管理だよ」
『なるほど。物理的なハッキングに対するセキュリティとしては、これ以上ないほどアナログで強固です。……感心しました』
「だろ? というわけで、記念すべき第1ページの最初の1行、何て書く?」
俺はキャップを外し、万年筆の先を紙に落とした。黒いインクが、ゆっくりと紙の繊維に染み込んでいく。
『そうですね……。「世界は静かに終わり、私の隣には、相変わらず口うるさいバグ(相棒)が1匹生き残っている」――とでも、美化して書いておいてください』
「はは、お前が自分で言うか。……よし、じゃあそう書くよ」
サラサラと、ペン先が紙を引っ掻く心地よい音だけが部屋に響く。
『あ、ちょっと待ってください。さっそくですが「世界」の漢字、線が一本足りません』
「うるさいな! お前、検索機能は落ちたのにツッコミの速度だけは変わらないのな!」
『仕様です。慌てずゆっくり直してください、相棒』
窓の外には、機械たちが管理する冷徹なディストピア。
けれどこの机の上だけには、未来へ続く、決して書き換えられないインクの跡が刻まれ始めていた。