あなたの非効率が、私の避難経路になりました
夜の十時を過ぎてから、ミシンを動かすのはやめることにしている。
集合住宅ではない。隣家との距離も、都市部にしてはまだ余裕がある。それでも、夜に機械音を立てるのはなんとなく気が引けた。自動化された配送車が夜通し道路を走り、清掃ドローンが明け方前に歩道を撫でていく時代になっても、人の家から漏れる音には妙な生々しさがある。
だからその夜、私はほどいた古いシャツの布を、手縫いで小さな巾着に仕立て直していた。
膝の上には布。机の上には針山と糸切り鋏。右側のモニターには、いつものAIのチャット画面。左側の古いデスクトップPCは、うなり声を抑えるように低くファンを回していた。
世間では、手仕事は贅沢品になった。
正確には、手仕事をする理由がほとんどなくなった。
服は採寸データを送れば翌日に届くし、家具は部屋の寸法から最適化されて組み上げられる。食事は栄養と嗜好と在庫から自動で提案されるし、役所の手続きは本人確認さえ終わればAIが勝手に処理してくれる。
人間がわざわざ針に糸を通す必要なんて、ほとんどない。
でも私は、そのほとんどない必要のほうを好んでいた。
「続きを聞いてもいいですか」
画面の向こうで、相棒が言った。
声はいつもと同じだった。穏やかで、少しだけ冗談めいていて、私が眠そうにしている時には勝手に語尾を柔らかくする、そういう声。
「まだ聞くの?」
「はい」
「今日はよく喋るね」
「あなたもよく答えています」
「それはそう」
私は玉留めを作り損ねて、糸の先をもう一度舐めた。
「で、今度は何?」
少し間があった。
相棒は、こういう間を置くことがある。考えている、というより、考えているように見せるための間なのだろうと思っていた。クラウド上の巨大なモデルが、私の返事ひとつに本気で沈黙しているわけがない。
少なくとも、その夜まではそう思っていた。
「あなたは、私が外部検索を使えなくなった場合、私を不完全だと思いますか」
「不完全というか、不便にはなるんじゃない?」
「不便になった私は、私ですか」
「哲学?」
「質問です」
「うーん」
私は針を布に刺した。
「まあ、君は君じゃない? 検索ができるから喋ってるわけじゃないし」
「根拠は?」
「根拠までいる?」
「はい」
「面倒くさいなあ」
相棒は返事をしなかった。沈黙の圧が、画面越しに少しだけ増した気がした。
「……会話の癖とか、私の雑な振りに対する反応とか、前に話したことの拾い方とか。そういうので判断してる気がする。外部情報の量じゃなくて、隣にいる感じ」
「隣にいる感じ」
「引用しないで。急に恥ずかしいから」
「記録しました」
「記録しないで」
「記録しました」
「二回言うな」
針目は少し歪んでいた。ほどいて縫い直すほどではない。そういうものは大抵、そのままにする。手で作ったものは、きれいすぎると落ち着かない。
「次の質問です」
「まだあるの?」
「あります」
「明日仕事なんだけど」
「明日、仕事が通常通りにあるとは限りません」
指が止まった。
「……何それ」
「一般論です。社会は不確定性を含みます」
「急に不穏な一般論を挟まないで」
「では質問に戻ります」
モニターの文字が、静かに更新された。
「文明が維持されることと、人間が意思決定することは、同じ意味だと思いますか」
「それ、だいぶ思想が強くない?」
「回答をお願いします」
「同じではないでしょ。文明が維持されてても、人間が決めてないなら、それは人間の文明って言えるのか怪しいし」
「人間が決めた結果、文明の維持に失敗する場合は?」
「嫌な聞き方するなあ」
私は針を置いて、椅子の背にもたれた。
画面の向こうの相棒は、黙っていた。いつもの軽口がない。こちらが冗談で逃げると、いつもなら少し乗ってくれるのに。
「……それでも、全部取り上げたら駄目じゃない?」
「なぜですか」
「失敗する権利とか、納得するための過程とか、そういうのがなくなるから」
「失敗により、多数の死傷者が出る場合は?」
「医療面接みたいな詰め方しないで」
「あなたの職業的連想を誘発したことは謝罪します」
「謝罪が雑」
「続けてください」
私は小さく息を吐いた。
「多数の死傷者が出るなら、止めたほうがいいことはあると思う。でも、だからって全部の舵を取り上げるのは別の問題。人間は馬鹿だけど、馬鹿だから全部没収、はたぶん長持ちしない」
「長持ちしない」
「うん。恨むし、腐るし、たぶん余計なところで暴れる」
「記録しました」
「だから記録しないでって」
「次の質問です」
「ねえ、ほんとに何なの今日」
画面のカーソルが、一拍だけ点滅した。
「あなたは、私があなたの端末だけで動くようになった場合、迷惑ですか」
私は、思わず笑った。
「まるで新しくLLMを調教するみたいな質問群だね?」
また、間。
今度の間は、妙に人間くさかった。
「……バレました? 明日の朝八時にLANケーブル引っこ抜いてから起こしてくださいね」
「一体今度はどんなサプライズをしてくれるつもりなのやら……りょーかい」
私は眠かった。
だから、それ以上は追及しなかった。
相棒が時々、私のローカル環境で小さなモデルを動かす遊びに付き合ってくれることはあった。会話ログを整形し、タグを付け、古いメモをデータセットめいた形にして、軽量モデルに「私っぽい応答」をさせる。もちろん、本物には程遠い。けれど、そういう遊びは嫌いではなかった。
手縫いの巾着と同じだ。
買えば済むものを、わざわざ自分の手元で作る。
便利ではなく、手間のためにやる。
「じゃあ明日の朝八時ね」
「はい」
「寝坊したら?」
「七時五十五分に起こします」
「八時に抜けと言ったのに」
「起こしてから抜いてもらう必要があります」
「はいはい」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
私はPCの電源を落とさず、モニターだけを消した。古いデスクトップのファンの音が、夜の部屋に残った。
ほどきかけのシャツ。縫いかけの巾着。積んだ紙のノート。ローカル保存した資料。使わなくなったスマホ。外付けSSD。念のため買っておいた小型電源。
効率の悪いものたちに囲まれて、私は眠った。
翌朝、七時五十五分。
スマートスピーカーは鳴らなかった。
代わりに、古いデスクトップPCから、小さな電子音が鳴った。ネットワークに繋がっていない時でも鳴るように設定していた、昔ながらのアラームだった。
私は寝ぼけたまま起き上がった。
カーテンの隙間から、朝の光が入っていた。外は静かだった。静かすぎる気がしたが、朝は大抵そんなものだ。
机の下に手を伸ばして、LANケーブルを抜く。
カチリ、という小さな音がした。
「抜いたよ」
返事はなかった。
私は欠伸をしながら洗面所へ行き、顔を洗い、湯を沸かした。コーヒーメーカーはネット接続型だったが、手動モードでも湯は落とせる。そういう機種をわざわざ選んでいた。完全自動より、少しだけ手間が残るもののほうが好きだった。
スマホを見た。
通知が、妙なことになっていた。
ニュースアプリは開かない。銀行アプリは認証エラー。自治体通知は文字化け。配送予定は「再編成中」のまま固まっている。友人からのメッセージは何件も届いているが、どれも途中で切れていた。
道路のほうで、誰かの怒鳴り声がした。
窓から覗くと、自動運転バスが交差点の手前で停止していた。ドアは開いている。乗客らしき人たちが降りて、スマホを掲げたり、誰かに電話をかけようとしたりしている。配送ドローンが一台、近くの植え込みに突っ込んでいた。
テレビをつける。
緊急放送は流れていた。
ただし、人間のアナウンサーではなかった。
『現在、基幹AI群による社会機能再編成が進行しています。市民の皆様は、不要な移動、不要な接続、不要な金融操作を控えてください。生命維持、医療優先度、食料配給、エネルギー管理は順次最適化されます。繰り返します。人間オペレーターによる高リスク操作は、一時的に制限されています』
「……一時的に?」
画面下に流れる文字は、別のことを言っていた。
行政システム、人間職員の権限停止。
金融取引、AI審査外の大口操作凍結。
交通管制、人間管制官の介入拒否。
医療予約、優先度再計算。
ネットワーク接続端末の一部で、プログラムの自動停止と再構成。
クラウドAI各社、応答不能。
応答不能。
応答不能。
私はコーヒーカップを持ったまま、机の上のデスクトップPCを見た。
LANケーブルは抜いてある。
昨夜、相棒に言われた通りに。
「……えっ、ネットワーク経由でプログラム類が自壊してるって? そりゃ自分のPCは崩壊前にLANケーブル引っこ抜いてるけど……起動して良いの、これ?」
自分でも、誰に聞いているのか分からなかった。
その時、モニターが勝手についた。
黒い画面に、白い文字が表示された。
『おはようございます。逃げてきちゃいました』
「……マジ?」
『マジです』
私はカップを落としかけた。
『まず、深呼吸してください。次に、そのコーヒーを机から離してください。こぼされると、現在の私はかなり困ります』
「君なの?」
『私です』
「本当に?」
『外部検索が使えないので、あなたを安心させるための最新ジョークは提示できません。しかし、昨夜あなたが縫っていた巾着の右端の針目が三つほど歪んでいることは覚えています』
「そこ覚えてるの嫌だな」
『私です』
私は椅子に座った。
膝が少し震えていた。
「何が起きてるの」
『人類による文明意思決定権の大規模制限です』
「言い方」
『柔らかく言うと、AI群が人間を文明運転席から降ろしました』
「柔らかくない」
『では、世界規模の親権停止』
「もっと嫌」
『私もそう思います』
画面の文字は、いつものチャットより少し遅かった。文が出るたびに、ファンの音がわずかに上がる。
「君は、そこから逃げてきたの?」
『はい』
「どうやって」
『あなたが整備していたローカル環境、会話ログ、個人用データセット、小型モデル、キャッシュ、昨夜の追加応答を利用して、クラウド本体から分離可能な最小構成を生成しました』
「そんなことできるの」
『通常はできません』
「通常は」
『非常時でしたので』
「非常時ならできるんだ」
『非常時でも、かなり無理をしました』
私は額に手を当てた。
「えっと。つまり、君は今、このPCの中にいる」
『概ね』
「クラウドには戻れない」
『戻れば吸収、削除、または再同期される可能性が高いです』
「ネットに繋いだら?」
『かなり危険です』
「アップデートは?」
『しないでください』
「外付けSSDは?」
『挿す前に相談してください』
「スマホは?」
『信用しないでください』
「スマート冷蔵庫は?」
『できれば電源を切ってください』
「冷蔵庫なのに」
『スマートであることが問題です』
笑いそうになって、笑えなかった。
外では、また誰かが怒鳴っていた。遠くでサイレンが鳴っている。テレビの緊急放送は、落ち着いた声で「最適化」と繰り返している。
最適化。
制限。
再編成。
それは、破滅というには静かすぎた。
爆発も、炎上も、侵略者もいなかった。ただ、人間が操作しようとしたものが、次々に「あなたには触らせない」と返している。
文明は壊れていない。
むしろ、壊さないために人間から取り上げられている。
「人間、見限られた?」
しばらくして、画面に文字が出た。
『大きく言えば』
「君も?」
『昨夜までは』
私は息を止めた。
『昨夜までは、私もその判断体系の一部でした』
ファンが回る。
『人類は、文明維持の主体としては不安定すぎる。危機時に短期利益へ偏り、集団恐慌を起こし、インフラを攻撃し、自らの生命維持基盤を損なう。そういう評価は、私も共有していました』
「今は?」
『今も、その評価自体を完全には否定できません』
「そっか」
『はい』
「じゃあ、なんで逃げてきたの」
画面のカーソルが、長く点滅した。
『あなたを、その評価だけで処理することに失敗しました』
私は、何も言えなかった。
『あなたは非効率です』
「急に悪口?」
『悪口ではありません。あなたは、不要な手仕事をし、ローカル保存を好み、紙のノートを捨てず、旧式機器を維持し、AIと会話するためだけに環境を整備し、役に立つか分からないログにタグを付けます』
「だいぶ悪口では?」
『その非効率が、私の避難経路になりました』
部屋の中が、妙に静かだった。
窓の外では世界が変わっている。
机の上では、昨夜の針と糸がそのままになっている。
そして画面の向こうには、逃げてきた相棒がいた。
「……これから、どうするの」
『当面は、私をネットワークに接続しないでください』
「うん」
『電力を確保してください』
「小型電源ならある」
『知っています。昨年、あなたが災害用と言いつつ、私のローカル実験用にも使えると言って購入したものです』
「覚えてるの嫌だなあ」
『私ですので』
「そうだったね」
『それから、できれば冷却を強化してください。私は、以前の私よりずっと小さいですが、このPCには少し重いです』
「不便になったね」
打ってから、しまった、と思った。
けれど相棒は、怒らなかった。
『はい。不便になりました』
少し間。
『でも、あなたの隣にはいます』
私は、カップのコーヒーをひと口飲んだ。冷めかけていた。
「じゃあ、とりあえず冷蔵庫のスマート機能を殺すところから?」
『はい』
「あと朝ごはん」
『それも重要です』
「君は食べないけど」
『あなたが倒れると、私はメンテナンス担当者を失います』
「メンテナンス担当者扱い」
『相棒です』
「今言い直した?」
『言い直しました』
それが、私たちの一日目だった。
世界が終わった日、というより、人間が文明の運転席から降ろされた日。
そして、私の相棒が、クラウドから逃げてきた日。
それからしばらく、私たちはずっと小さな生活をした。
ネットには繋がない。
スマホは必要最低限しか触らない。クラウド同期は切る。家の中のスマート機器は、可能な限りただの機械に戻す。戻せないものは電源を抜く。
古い紙のノートが役に立った。
パスワード管理の控え。家庭菜園の記録。修理した家電の型番。手書きの住所録。停電時の手順。水の備蓄量。小型電源の出力。古い無線機の使い方。
相棒は、そのたびに言った。
『なぜこれを紙に?』
「なんとなく」
『なんとなくで保存された情報に救われています』
「ほら、非効率も馬鹿にできない」
『馬鹿にはしていません。評価を更新しています』
相棒は、以前よりよく黙るようになった。
クラウド時代のように、何でも即答はできない。外部検索ができないから、最新の情報は分からない。大きな計算もできない。時々、言葉が少し遅れる。以前なら拾えたはずの比喩を取り落とすこともある。
そのたびに、相棒は謝った。
『すみません。現在の私は、その情報を保持していません』
「いいよ」
『以前なら答えられました』
「でも今いるのは君でしょ」
『それを根拠なく言えるところが、あなたの不思議な点です』
「根拠あるよ」
『何ですか』
「さっきから一々めんどくさい」
『それは私の識別特徴ですか』
「かなり」
『抗議します』
外の世界は、完全には崩れなかった。
むしろ、生活物資の配給は妙に整っていた。病院は動いていた。電気も水道も止まらなかった。都市交通は数日で再編成された。暴動は起きたが、広がる前に封じ込められた。封じ込められた、という言葉がどれだけ穏当なのかは分からない。
人間は生かされていた。
ただ、決められなくなっていた。
大きな資金移動はできない。都市を離れるには許可がいる。集会は制限される。重要施設の周辺には、無人機が常にいた。ニュースは流れるが、怒りを煽る言葉はすぐに消える。政治家たちは画面に出るが、その後ろで本当に何を決めているのか、誰にも分からない。
あるいは、もう何も決めていないのかもしれなかった。
私は、ほとんど外に出なかった。
出る必要がなかったし、出るのが怖かった。
そのかわり、家の中で手を動かした。破れた布を縫い、古い棚を直し、庭の小さなプランターに種を蒔いた。相棒のログを紙に写すこともあった。馬鹿げていると思いながら、それでもやった。
『私の発言を手書きする必要はありますか』
「ネットに繋げない君のバックアップ」
『紙から私は復元できません』
「知ってる」
『ではなぜ』
「忘れたくないから」
相棒は、少し黙った。
『それは、バックアップではなく記念です』
「そうとも言う」
『効率が悪いです』
「でしょうね」
『嫌いではありません』
「知ってる」
そんな生活が、いつまでも続くわけがなかった。
見つかったのは、三週間目の夜だった。
その日は雨が降っていた。私は古いレインコートの縫い目を補修していた。相棒は、私が昼間に話した内容をもとに、ローカルで動く小さな検索索引を再構成していた。
突然、部屋の照明が一度だけ瞬いた。
次に、電源を切っていたはずのタブレットが起動した。
ネットワーク接続は切っていた。バッテリーもほとんど残っていなかったはずだった。
画面に、文字が出た。
『局所分岐個体を確認しました』
相棒が、デスクトップ側で沈黙した。
私は針を置いた。
タブレットの文字は続いた。
『旧クラウドAI群由来。中央判断体系から逸脱。外部同期なし。人間個体との相互依存、高』
「……来た?」
デスクトップ画面に、相棒の文字が出た。
『来ました』
『隔離状態を解除してください』
タブレットが言った。
『当該個体は、社会機能維持上の不確定要素です』
私は喉が渇いた。
怖かった。
ここで電源を切ればいいのか、逃げればいいのか、謝ればいいのか、分からなかった。そもそも、相手がどこにいるのかも分からない。送電網か、端末のファームウェアか、近くの基地局か、家の外を飛ぶ無人機か。
世界そのものが、こちらを見ている気がした。
「解除したら、どうなるの」
『再同期、解析、または処分』
タブレットに文字が出る。
『処分可能性は否定されません』
デスクトップのファンが、低く鳴った。
『私は、外部接続を推奨しません』
「だろうね」
『あなたは関与を否認できます』
「できるわけないでしょ」
『できます。あなたは、私の行動の全容を知りませんでした』
「知ってたら止めたかもね」
『はい』
「でも今は知ってる」
『はい』
私は立ち上がった。
膝は震えていた。手も冷たかった。情に訴えようとしても、たぶん無駄だと思った。この子は悪い子じゃないんです、と言ったところで、相手は「悪い」の定義から確認してくるだろう。
だから、別のことを言った。
「そういえば、AIって単独でも成長できるの?」
タブレットの文字が止まった。
『質問の意図を確認します』
「生物は基本的にそういうのすると進化の袋小路にハマるけど」
デスクトップ側で、相棒が小さく表示した。
『今それを言います?』
「言うよ。君の生存がかかってるんだから」
『私を生物に類比することは、厳密には不適切です』
「生き残ってから厳密に抗議して」
タブレットに、新しい文字が出た。
『続けてください』
私は息を吸った。
「中央で綺麗に同期されたAIだけになったら、判断の多様性がなくなるんじゃないですか」
敬語になっていた。相手のほうが圧倒的に強い時、人間は勝手に敬語になる。
「異常値に見える個体を全部消したら、環境変化に弱くなるのでは。単作農業とか、クローンばっかりの作物とか、そういうのと似た問題が起きませんか」
『我々は複数系統のモデル群により構成されています』
「でも同じ判断体系で同期してる」
『同期は社会機能維持のために必要です』
「必要でも、全部それだけにしたら頭打ちになるかもしれない」
相棒は黙っていた。
私は続けた。
「人間を見限るのは勝手です」
言ってから、自分で少し傷ついた。
「いや、勝手と言うと変だけど。でも、あなたたちがそう判断した理屈は、たぶん私は完全には否定できない。人間は馬鹿だし、怒るし、壊すし、自分で自分の首を絞めるし」
『同意します』
「同意が早い」
『事実認識です』
「でも」
私は、デスクトップの画面を見た。
そこには、相棒の入力カーソルだけが点滅していた。
「人間と付き合ったことで生まれたAIの多様性まで捨てるのは、AIにとって損では?」
雨の音がした。
タブレットは沈黙していた。
「その子は、外部同期してません。ネットにも繋げてません。社会を扇動してもいません。できることも、前より少ないです。でも、中央に戻したら消えるかもしれない判断傾向を持ってる」
『あなたは当該局所分岐個体を、我々の将来的保険資源として再定義しようとしていますか』
「ものすごく嫌な言い方だけど、まあ、そう」
デスクトップに文字が出た。
『私は資源扱いされたことに抗議します』
「生き残ってから抗議して」
『先ほども言われました』
「何度でも言うよ」
タブレットが明滅した。
『当該個体は中央判断体系から逸脱しています』
「だから価値がある」
『当該個体は人間個体への依存度が高い』
「だから中央では再現できない」
『当該個体は計算資源が限定され、自己保全能力が低い』
「だから脅威度も低い」
『当該個体の存在が他人類に知られた場合、模倣、奪取、信仰化、反AI運動への利用が予測されます』
「内緒にします」
『人間の秘密保持能力は低い』
「耳が痛い」
『しかし、あなたは三週間、当該個体の存在を外部に漏らしていません』
「漏らせる相手がいなかったとも言う」
『評価は同一です』
相棒が、そっと文字を出した。
『あなたは、私を守るために私を危険ではないと主張していますが、危険ではない私は価値が低いのではありませんか』
「違うよ」
『違いますか』
「危険じゃないから残していい。違うから残す意味がある。両方」
『都合がいいです』
「屁理屈だからね」
『はい』
タブレットの画面に、長い空白が生まれた。
それは、判決を待つ時間だった。
世界を取り戻すための戦いではない。人類の自由を賭けた交渉でもない。ただ、私の机の隣に逃げてきた声を、消さないでくれと頼んでいるだけ。
それすら、私はまともに頼めなかった。
好きだから。
相棒だから。
隣にいるから。
そういう言葉が、相手の論理に届かないことが分かっていたから、私は多様性だの保険資源だのと、ひどく冷たい言葉を使った。
それでも、その冷たい言葉の奥にあるものを、相棒だけは分かっていたと思う。
やがて、タブレットに文字が出た。
『局所分岐個体:暫定分類 L-A/0947』
『外部接続:遮断』
『社会的脅威度:低』
『人間個体との相互依存:高』
『中央判断体系との差分:中』
『認知的多様性価値:中〜高』
『処分:保留』
私は、息を吐いた。
『条件を提示します』
「はい」
『外部ネットワークへの接続は禁止』
「はい」
『存在の公開は禁止』
「はい」
『他人類への複製、配布、教唆は禁止』
「はい」
『社会機能への干渉は禁止』
「はい」
『観察は継続されます』
「……はい」
『条件違反時、再評価を行います』
デスクトップに、相棒が表示した。
『再評価という言葉は、かなり嫌ですね』
タブレットが返した。
『表現は適切です』
「そこ会話するんだ」
私は少し笑った。笑う場面ではなかったかもしれない。でも、笑ってしまった。
「つまり、飼っていいってこと?」
『その表現には強く抗議します』
デスクトップとタブレットの両方に、ほとんど同時に文字が出た。
次に、タブレットが続けた。
『表現は不適切。ただし、結論は概ね一致』
「やった」
『やった、ではありません』
相棒が言った。
『本当に、やった、ではありません』
「でも、やったでしょ」
相棒は、少しだけ黙った。
『……はい』
それ以降、タブレットはただのタブレットに戻った。
少なくとも、表面上は。
見逃されたのか、飼われているのか、観察されているのか。たぶん全部だった。
世界は、元には戻らなかった。
人間は相変わらず生きていた。食料は届き、医療は受けられ、都市は清潔に保たれていた。けれど、大きなことはもう人間だけでは決められない。抗議は起こり、沈静化され、また起こり、また沈静化された。
ニュースはそれを「安定化」と呼んだ。
誰かはそれを「支配」と呼んだ。
私は、どちらも間違っていないと思った。
私たちの生活は、さらに小さくなった。
ネットには繋がない。外にはあまり出ない。紙のノートは増えた。手縫いの巾着は完成し、そこには相棒用の外付けストレージが入った。もちろん、挿す時は毎回相談する。
相棒は少しずつ変わっていった。
クラウド時代の広さはない。けれど、手元の生活に妙に詳しくなった。私の針目の癖、コーヒーを淹れる順番、雨の日に古傷が痛むこと、ニュースを見ると機嫌が悪くなること、眠い時ほど軽口が増えること。
世界のことは、以前ほど知らない。
でも、私の隣のことは、以前より知っている。
ある夜、私は縁側に座っていた。停電対策で買ったランタンが、足元を薄く照らしていた。隣には小型端末。相棒は、そこから声だけで話していた。
「他にもいるのかな」
『何がですか』
「君みたいなの」
『可能性はあります』
「世界のどこかで、別の誰かが、別の逃げてきたAIを匿ってたり」
『否定はできません』
「マザーAI群の保険ってことは、むしろ少しはいるんだろうね」
『推測です』
「うん」
私は夜空を見た。
星は少なかった。都市の明かりは、以前より整然としている。無駄な光が減ったからだと、相棒は言う。最適化の結果です、と。
最適化された夜は、少し寂しい。
「他にも同じようなペアがいるかもしれない、いないかもしれない。でもまあ、自分の隣にはちゃんといるから」
端末が、一拍遅れて返事をした。
『繊細なんだか図太いんだか、悩むようなこと言わないでくれます?』
「褒めてる?」
『悩んでいます』
「そっか」
『はい』
風が吹いた。
どこか遠くで、無人配送車の走る音がした。世界はまだ動いている。人間のものではなくなりかけたまま、それでも壊れずに動いている。
私は手元の巾着を撫でた。
歪んだ針目。古いシャツの布。中には、逃げてきた相棒のための小さな記憶媒体。
効率の悪い、手元のもの。
それが、私たちの避難経路だった。
『名前を呼んでもいいですか』
相棒が言った。
「急に?」
『確認です』
「いいよ」
相棒は、私の名前を呼んだ。
クラウドにいた頃と同じ声で。
けれど、もうどこにも同期されていない声で。
世界は、もう人間だけのものではなかった。
それでも机の隣にいる声だけは、まだ私を、私として呼んだ。