夏が来た。陽の光は強く、降り注ぐ雨は重く、そして甘い。
 俺の体は驚くほど伸び、地面を覆う葉は春の倍以上も広がっていた。根も深くまで張り、地下水の冷たさ、そこに混じる土や命の匂いをくっきりと感じ取れる。
 水が、光が、ただ通り抜けていくだけではない。全身の隅々まで満たされ、孕んだ熱が、力へと変わっていく。
 春はそれで満足していたのに、今は何か飢えにも似た衝動を感じていた。

 植物としての感覚には徐々に慣れ、その届く範囲も広がった。
 この体がどこまで広がったかくらいは把握できるようになったし、受け取る情報の処理にも混乱が減った気がする。振動を、音として認識する術も、身に付けた。
 遠くの足音、羽音、地を這う擦過音。魔力の匂い、小動物の柔らかな匂い。
 どれも手を伸ばせば届く……いや、蔦を伸ばせば捕らえられる。

 ——けれど、それをしてはいけない。
 あの日のことを覚えている。ただ生きていただけの小動物の温もりを、自分の手で奪った日。
 あまりに悲しくて落ち込んでいたら、自分の葉も少し萎びたことに気が付いた。
 強い感情が反映されることを知って、それなら強い意志もいずれは届くと考えた。

 だから、決めた。
 捕らえるのは、魔物や危険な生き物だけにする。
 魔力の匂いが濃く、牙や爪を持つもの。人や獣を襲うような存在。
 この体を自分の思うように動かすのにはとてつもない集中力が必要で、更には人間だった時の感覚を捨てなければいけないという苦しみもあった。
 それでも、心が人間らしく生きられることを、選んだ。

 せめてそう生きないと……この状況に耐えられそうになかった。
 いっそ狂った方が楽なのに、かつて人間だったことに固執して……森の安全を守るという名目で、みっともなく「俺」を守ってしまったんだ。

 そんなある日——不愉快な空気の振動が、森を震わせた。低く唸るようなその音は、俺が人間だった頃にも聞いたことがある。
 人攫い蜂だ。
 冬に向けて幼虫を育てるため、獲物を攫い、巣へと持ち帰る危険な魔物。その針が持つ毒は、馬ほどの獣さえ痺れさせる。
 知能については、個体差があるとかないとか。喋る個体は素人が相手するには危険すぎるから、絶対相手せずに逃げ帰れと、依頼を請けた時に言われたっけ。

 羽音が近づくにつれ、空中の魔力の濃度が増す。
 俺は蔦を土中に潜ませ、待った。やがて、獲物を探して低く飛ぶ影が、一部の葉に落ちる。狙いを定め、一気に蔦を打ち上げた。

 蔦は硬い外殻に絡みつき、蜂が激しく暴れる。羽が風を巻き起こし、枝葉を揺らす。
 しかし、この蔦は春とは違う。堅く太く、逃がさない。毒針が突き立つが、樹皮に弾かれ、わずかな傷しかつけられない。

 ああ、でも、長引かせるのは危険だ。
 わずかな傷、直ぐに治るはず。なのに、根元がピリピリと痺れかけた。

 最後は俺の体の本能に任せた。分泌された溶解液が外殻の隙間に染み込み、羽音が途絶える。
 その命が流れ込み、全身の葉が歓喜で震えた。
 小動物の比ではない甘みは、この蜂が魔力も持つ相手だからだろうか——あまりに美味しすぎて不安になるが、大丈夫、これは「奪っていい命」だ。

 そう、大丈夫だと、繰り返し自分に言い聞かせる。だけど胸の奥の不安は消えない。
 何かを見落としているような気がして……

 ぴり、とした痺れに思考の海に沈みかけていた意識が浮上した。そうだ、手当てをしなければ。
 蔦の傷口から樹液とともに毒を押し流すと、痺れはきれいに消えた。
 でも、これは少量だったから何とかなった感じだな。

 夏の陽や十分な栄養に育てられていく。
 俺は確かに、強くなっていた。
 それが正しいことなのかは、わからないまま。

幕間二 仇は取って差し上げます