夕食の後、テレビをつけっぱなしにしたまま、ソファに沈み込んでスマホを眺めていた。
 リビングのテーブルでは、詩織もいつものように、医療雑誌を広げていた。湯気を立てるマグカップを両手で包み込み、活字に視線を落としている。

「……灯香」

 呼びかける声が妙に真剣だったから、あたしは画面から顔を上げた。
 このままの暮らしが続けば、それでいいと思っていた。世間で騒がれる籍なんて、紙切れ一枚の形式にすぎない。
 ——そう信じていたのに、詩織の次の言葉は胸をざらつかせた。

「そろそろ……入籍、考えない?」

 差し出された言葉は、内容に反して、意外なくらいに柔らかい響きを持っていた。だけど、あたしの口から出たのは、反射的な軽口だった。

「別にいいよ、どうせ子どもだってできないし」

 空気が、凍りついた。思わずスマホに視線を逃したくらいに。
 紛れもない本音ではあったけれど、冗談めかしたつもりだった。女性同士じゃ血の繋がった二人の子なんて望めない。そのうち養子を考えるにしても、今すぐの入籍が必要だなんて思えなくて。
 なのに再び視線を上げて気付く、彼女の瞳には水が滲んでいた。

「……そう、だよね」

 笑おうとした形の口元があんなに震えていたのに、あたしの視線に気付いた詩織はサラッと表情を整えた。普段の顔じゃない——他所行きの、仕事の時の笑顔だ。
「ごめん、変なこと言っちゃった。気にしないで」
 声色まで、努めて平静を装っている。

 その完璧な笑顔が、逆に痛かった。
 本当は泣きそうになっていたことを、あたしは確かに見てしまったのに。
 取り繕われた瞬間、その感情にはもう触れられない。

「詩織、あの……」
 呼び止めようとして、結局、喉の奥に押し込んだ。こっちから断っておいて、何を聞けば良いのか。
 胸の奥に小さな棘だけが残り、抜けないまま深く沈んでいった。

第三章 未完の頁(詩織の日記)