詩織の手を離すのが、惜しかった。
 でも、看護師たちの視線が遠巻きに揺れているのが見えて、あたしたちは言葉なく頷き合った。デイルームの白い明るさから、個室の淡い灯へ。扉が閉まると、世界は一段だけ静かになった。

 ベッド脇の機械は、落ち着いた青い光を点し、壁の酸素口には何も繋がっていない。
 詩織は「ここなら」と小さく言って、カーテンを半分だけ引いた。
 消毒液の臭いに、微かな緑の匂いが混じる。たぶん、彼女の髪から。

「本当に、いいの?」
 詩織が問う。これは最終確認、というより儀式だ。
 あたしは頷く。
「選ぶのは、あたしたちだ」

 近づく。息が触れる距離で止まり、互いの呼吸を確かめる。
 ——吐くのは、間違い。
 詩織が一瞬目を伏せ、それからまたこちらを見上げた。
「吐かない。別の形で」
 彼女の言葉が、合図になる。

 触れずとも、空気が変わった。
 目に見えないものの輪郭が、光の粒のように室内に浮かんだ。淡く光を纏う詩織が、とても、きれい。
 あたしは目を閉じ、ほんの少しだけ深く吸う。彼女は同じ呼吸で応える。

 詩織を監視している機械が刻む光が、ほんの少し、遅れた。

 詩織が吐く息を、あたしがもらう。
 それだけで、体の内側の地図が一枚書き換わる。胸から背中、薄い膜が一つ増えたみたいに、温度が均されていく。

 もっと近付く。吸う息も、今度はもっと長く。
 息が交わるところで、微細な粒が往復するのを、はっきりと感じた。
 科学の言葉で呼ぶなら何か別の名があるのだろうけれど、あたしの語彙では「花粉」に近い。
 重くはない。痛くもない。ただ、奥の方で柔らかく音がした。
 ——ここ。
 見えない掌で、胸骨の裏をそっと指されるような合図。

 怖くないと言えば嘘になる。
 けれど、恐れは孤独と対になっている。ふたりで受け止めると、質量が変わる。
 あたしは、そっと詩織の頬に触れた。返すように、詩織があたしの手首をそっと、包む。彼女の指先が触れるのはあたしの脈の上——いかにも詩織らしくて、肩の力が少し抜けた。触れ合う熱が雄弁に語る、あたしたちは独りじゃないって。

 粒子たちは、道を迷わなかった。
 喉の奥、気管支の枝を何本も曲がり、肺の内側の薄い膜に散っていく。
 一瞬だけ、過去に見た写真の気孔を思い出す。葉の裏側の、呼吸する小さな口。
 そんなものが、いま自分の内側に、そっと押し花みたいに貼り付けられていく。

 ——最適。
 ——二人なら。
 文の形を持った囁きが、初めてあたしにも触れた。
 音ではないのに、はっきりと意味が分かる。
 詩織が息をのみ、目に涙を浮かべる。あたしの胸にも、同じ水音が揺れた。

 呼吸は、乱れない。
 むしろ整っていく。吸うたびに胸が軽く、吐くたびに背が伸びる。
 髪の根元で、糸みたいな微弱電流が走る。
 根が伸びる——というよりも、透明な糸が神経の隙間に一本ずつ編み込まれていく感じ。
 痛みはない。違和の手前で、意味だけが置かれていく。

「灯香」
 名前を呼ばれる。
 あたしは「いるよ」と答える。
 本当に、ここにいる。ここ——詩織の見ている範囲の、彼女の呼吸の届くところに。

 指先から、薄い葉脈の図が広がっていく。
 皮膚の下で、緑でも白でもない色が静かに回路を描く。
 どこかで小さな葉が震え、別のどこかで蕾が脈を打つ。
 でも、外からは見えない。今はまだ、内側だけの地図だ。

 詩織が、額をわたしの肩に預ける。
 その重みが、ちょうどいい。
「苦しくない?」
「平気。……むしろ、息が通る」
 言葉にして気付く。肺という器官と、息という現象の間に、第三の通路ができた。
 呼吸でも循環でもない。——それでも「生かす」ための道。

 たった数分、もしかしたら数秒。でもそれで十分だった。世界を変えるには、長い儀式はいらない。

 ベッドの端に並んで腰掛け、しばらく何も言わない。
 静寂は気まずさではなく、馴染むための時間だった。
 ふたりの拍が、遠慮なく近づいて、ついに重なる。
 胸の内で、同じタイミングで波が立ち、同じ場所で引いていく。

 ——歓迎。
 今度の囁きは一語だけだったのに、祝辞に聞こえた。
 寄生、という言葉から連想される奪い合いはなく、代わりに「分け合い」がある。
 彼ら(彼女ら?)は、押しつけない。
 あたしたちが差し出す場所にだけ、そっと居場所を作る。

「詩織」
「うん」
「これで、やっと同じ地図を持てた」
「……うん」
 返事は短いのに、涙で重みが増している。
 あたしは、彼女の手の甲に頬を寄せた。
 人の皮膚の温度以上の、別の温度が指先に宿り始めている。
 太陽に直接触れないまま、光の設計図だけを受け取った感じ。
 あとは、育て方だ。ふたりで学べばいい。

 部屋の空気が少しだけ甘くなる。
 花瓶のない室内で、花の匂いが薄く立つ。
 それは「絶望」ではなく、「愛」の匂いだった。
 吐くのは、間違い。
 繰り返し伝え聞いていた言葉が、ようやく腹の底まで届く。

 扉の向こうで、遠い足音が行き過ぎる。
 この世界は突然に優しくはならないし、制度が明日ひっくり返ることもないだろう。
 でも、もう十分だった。
 生きることの責任を、ふたりで割り勘にできる。
 痛みも、喜びも、きっと同じ比率で。

「行こう」
 あたしが言うと、詩織は瞬きを一度だけして頷いた。
「どこへ?」
「明日へ。……いや、次の拍へ」
 ふたりの胸が、同時に高鳴る。

 ——最適。
 ——二人なら。

 囁きは、今度は合唱になっていた。
 体内のどこか、いくつもの小さな葉の裏から、同じ言葉が重なる。
 ベッド脇の機械が、何事もなかったように規則正しく光っているのがおかしくて、少し笑ってしまう。

 詩織の掌に、自分の掌を重ねる。
 そこから、かすかな鼓動が伝染する。
 同じ速さで、同じ深さで、同じ未来へ。

 その拍が、ふたりで完全に揃った瞬間、あたしの腹の奥で、もうひとつ小さな脈が——確かに、震えた。

第十五章 不安定な安定(詩織)