冷たかった流れが、少しずつ温みを帯びる。温度の存在、水の味を「思い出して」混乱した。ここは死後の世界では、ないのかもしれないと。
 実際に、俺は死に損なったようだった。少しずつ、知らない感覚を「思い出して」いく。それが、とてつもなく、怖かった。
 
 体の中を下から上へ流れていく、これは水だ。土から吸い上げ、空へと放つ。
 ……根から吸い上げて、葉から放つ。ああ……なんてこった。
 つまりこの体は……人間の、「俺」の体ではなくて……
 どうして。
 混乱していても、「この体」は「今まで」通り日々の営みを続けていく。それが、人間としての俺に耐え難い苦痛を強いた。

 根が水を吸い上げるたび、わずかな甘みと、柔らかい匂いが混じるようになった。
 外の世界は以前のようにはっきりと見えないけれど、多少の明暗や震えは感じるし、それ以上に雄弁な魔力の動きと香りで、何かが近くにあるのがわかる。

 かすかな重み。土の表面を揺らす小さな足音。
 息を潜めたわけでもない、ただ歩いているだけの存在。
 魔力の流れはない。危険でも、脅威でもない。
 そう判断したはずだった。
 なのに。

 ——気が付いたら、捕まえていた。蔦に絡まれ、柔らかい体が震える。
 感じるのは、明確な温もり。
 仄かに香る甘さは、俺の樹液なのか、まさか生臭いはずの「血」の香り……?
 せっかく触れていた「俺」にとって懐かしい温もりは、けれど急速に失われていく。
 指先から零れ落ちていく……手も指もないのに、強くそう感じた。
 もう二度と戻らない……俺のせいで。

 どうして。俺は……何をしているんだ?
 
 呆然としてしまったのは、だけど俺の気持ちだけだったらしい。
 心はまだ状況を把握するのに必死なのに、体の方はもう結論を出していた。つまり、せっかく捕らえたご馳走を見逃すつもりが、なくて……

 不意に、体の奥が熱を帯びて、我に返った。
 初めての感覚だけど、体が「覚えて」いる。
 この熱は、「俺」を溶かしたあの溶解液を生成するときに……。

 やめてくれ。これ以上、俺をもてあそばないでくれ。
 いやだ、こんな……

 切実な俺の願いは、けれど声にすらできない、どこにも届かない。
 ついに「涎」が出て、慌てて咄嗟に飲み込んだそれは情けないことにとても甘くて、「美味しかった」。
 その美味しさは、分泌された溶解液に一瞬で小動物の命が溶け出した証でもあり、つまり俺はそれを再吸収することで……うっ。
 吐き出せない。吐き出しても、もう戻らないのだろうけど。

 吐き出せないのに、いっちょ前に吐き気だけはする。
 わかっている、これは自己嫌悪のせいだ。
 生きていくのには栄養が必要で……いやでも、こんな……こんな。

 一方で、妙な納得があった。こうして俺も、喰われてしまったんだ。
 思い返しても、息は止まっていなかった。生きたままだったから、意識ごと。
 この植物には、人間の意識を処理する知能なんてなかったんだろう。結果として、俺が、こうして俺のまま……

 生えている葉がフルフルと揺れる。
 歓喜の震えなのか、動揺の震えなのか。普通の植物は、動くはずがないのに。
 そうだ、この体はただの植物じゃなくて……危険な、食肉種で……

 泣き喚きたくても、この体では、涙も流せない。声も出せやしない。
 ああ……本当に、どうして。

第四章 せめて自分にできることを