「ユキ」という名前が、智樹の日常に静かな変化をもたらした。
それまで自分に巻き付く蔦は「いつか自分を食い破る怪物」であり、忌むべき寄生植物でしかなかった。しかし、感情があると知って名前を与えたその時から、智樹にとってのそれは明確な意思を持つ「隣人」へと昇華されたのである。
きっかけは、翌日の昼下がりのことだった。
冬の柔らかな陽光が差し込む開けた岩場で、智樹はそれまでのように日向ぼっこをしていた。智樹の身体を覆う斑入りの葉が、光を求めてゆるゆると広がり、光合成を始める。神経の接続を通じて流れ込んでくる、ユキの生理的な「心地よさ」。
以前ならただ黙って受け流していたその感覚に、智樹はふと、右手を伸ばしてみた。
「……ユキ」
その名を呼びながら、頭上に展開している葉の輪郭を、指先でそっとなぞる。
智樹の右手が、斑入りの美しい葉に触れた。瑞々しく、微かな温かみを宿した植物の質感。智樹は、猫や犬の喉を鳴らすときのように、優しく、慈しみを込めてその葉を撫でた。
その瞬間、智樹の胸の奥に、ポコポコと泡立つような温かな波長が届いた。
植物であるユキには、人間のような鋭敏な触覚の「快感」は乏しい。しかし、神経を繋いでいる智樹から流れ込んでくる「やさしい」「すき」という純粋な感情を、ユキはダイレクトに受け取ったのである。
(……あったかい……すき、って かんじが、くる……)
ユキの喜びは、視覚的な変化となって現れた。
斑入りの葉がくすぐったそうに細かく震え、その縁からは雪のような白い光の粒子がポコポコと溢れ出した。
智樹はそれを見て、小さく笑った。自分が触れることで、この異形のパートナーが喜んでいる。その確信が、智樹の凍てついていた心を少しずつ溶かしていく。
それからというもの、「撫でる」ことは智樹の習慣になった。
日向ぼっこで心地よさを共有している時。
狩りを終え、食後の充足感に浸っている時。
そして夜、ユキの蔦が毛布のように自分を包み込む、眠る前のひととき。
智樹は無意識に手を伸ばし、ユキの蔦や葉を撫で、ユキはそのたびに白い光を溢れさせて智樹に喜びの気持ちを返した。
(……俺、いつの間にこんな)
たまにハッとしては、完全に絆されたと思う。それでも智樹は、ユキを撫でるその習慣をやめようとはしなかった。
それは言葉を介さない、けれど何よりも確かな「愛着」の交換だった。
智樹の指先から伝わる温かみが、ユキの中に新たな知性と感情を育てていく。そしてユキもまた、智樹をただの「宿主」ではなく、かけがえのない「守るべき相手」として強く認識し始めていた。
そんなある日、大雨になった。予兆は感じていたので、智樹は岩陰で雨宿りをしていた。
こんな状態になってから初めての、大雨。智樹の気持ちも沈んだが、それ以上に、ユキが落ち込んだ。
智樹の内側から、いつもと違う感覚が流れてくる。今までユキから流れて来るのは、狩りの時の不思議な悔恨を除けば、全てポジティブな反応だけだった。それが今は、もっと、こう……沈んだ感じの。
「……ん? 何だ、これ」
暗く、重く、元気がない何か。自分のどんよりだけでは、説明できない。
「ユキ? お前……どうした?」
よく見れば蔦はいつもより萎れ、葉も少し垂れている。ユキが、落ち込んでいる。おそらく、光合成ができなくて。
智樹はそっと、目の前に垂れる葉に手を伸ばした。
「大丈夫、明日はまた晴れるかもしれないだろう? 止まない雨はないんだから」
まだここまでの言葉を理解してくれているかは分からないけれど、ゆっくり撫でて、励ます。せめて、安心して欲しい気持ちが伝わればと——そう願いながら。
ユキの気持ちとしては、困惑した、が最も近かっただろう。光が来なくてしゅんとしていたら、あたたかい気持ちと共に、撫でられた。
(……おれ? あったかい?)
(あー……、智樹、な)
(ともき、あったかい)
光は相変わらず届かないけれど、さっきよりも「あたたかい」から、ユキは思った。智樹のことを、「あたたかい」と。
翌朝はよく晴れて、ユキは全力の「うれしい」を智樹に送り付けた。「うれしい」気持ちを共有したくなったから。
智樹の神経に接続し、ユキという名前ももらい、その屍蔓は緩やかながらも情緒を育てていた。