『屍蔓の森』で、屍蔓と共に生きるようになって、智樹の体感だけでも十日以上が過ぎた。
水面に映る自分の姿は、もう「人間」とは言い難い。ボロボロのジャケットの隙間からは斑入りの蔦が這い出し、心なしか自分の目や髪も緑色がかってきた気さえする。
「……もう、無理だな」
町に戻ることは。人の中に混じって、以前のように生きることは。
この姿では、誰もが「魔物に取り憑かれた哀れな犠牲者」として、あるいは「駆除対象」として、智樹のことを見るだろう。
今回の諦めは、存外に静かだった。十日以上、この屍蔓は智樹を締め殺すことも、苗床にして意識を奪うこともなかった。それどころか、智樹の身体が求める水を教え、酸素を送り、致命傷だった傷を強引に繋ぎ止めて生かし続けている。
「……仕方ない、か」
智樹は岩の上に座り、無意識に左腕の蔦を指先でなぞった。以前なら嫌悪感で手が震えたはずの感触は、今では日差しを浴びて温かく、どこか滑らかですらあった。
その日の狩りは、いつになく円滑だった。
茂みの奥に潜む獲物の気配を、蔦の震えを通じて智樹が感じ取り、ナイフを構える。智樹がナイフを投げるのに一瞬遅れ、左腕の蔦が鞭のようにしなやかに伸び、獲物を絡め取った。最近ではこの蔦が傷に反応すると学習し、飛び道具主体の狩りになっていた。
締め殺す瞬間に流れてくる、あの「曖昧な悔恨」のような揺らぎ。それを、智樹が「ごめん、でも食べるから」と心の中で宥めると、蔦の力加減がわずかに緩んだ気がした。
食事を終え、いつものように水魔法で呼び寄せた水を口にしたときのことだ。
身体の内側から、いつも通り「あたたかい」「おなかいっぱい」という、生理的な充足感が流れてくる。
だが、今日はそれだけではなかった。
充足感の奥からもっと明るい、ポコポコと泡立つような「何か」が溢れ出してきたのだ。
「……ん?」
それは、智樹自身の感情ではない。けれども、自分の心臓が跳ねるように、確かに伝わってくる。
嬉しい。
生きていて、嬉しい。
一緒にいられて、誇らしい。
そんな、混じり気のない純粋な喜びの波長。
「……お前、……笑ってるのか?」
思わず声に出していた。
智樹は自分の腹部を、左腕を、そして背中から肩へと伸びる斑入りの葉を見つめた。
ただの植物ではない。ただの本能の塊でもない。
俺の神経と繋がり、俺の血を分け合い、俺が生きて、食べて、日光を浴びるたびに、こいつは「喜んで」いたのだ。
これまで「気持ち悪い」と切り捨てていた感覚の正体は、こいつの感情だった。
「なんだよ……。お前も、ちゃんと生きてるんだな。ただの化け物じゃなくて、……生き物なんだな」
口元が、自分でも気づかないうちに緩んでいた。
感情があるなら。自分と同じように喜ぶ心があるなら。それはもう、忌むべき寄生植物ではなく、共にこの過酷な森を生きる「隣人」だ。
ふと左腕を見ると、細い蔦が一本、ふよふよと風に揺られながらも伸びようとしている。智樹は、その蔦をそっと、慈しむように撫でた。
「……名前、な」
ふと思いついた。
この存在を「お前」とか「屍蔓」とか呼ぶのは、もう違う気がした。
雪の中で出会ったこと。斑入りの葉に宿る白い光が、雪のように美しかったこと。
そして、自分が絶望の淵から掬い上げられた、あの日の光景。
「『ユキ』。……ユキ、でどうだ?」
智樹がその名を口にした瞬間。
身体を巡る魔力が、目に見えて輝きを増した。
左腕の蔦がくすぐったいほどに細かく震え、斑入りの葉の隙間から、祝福のような白い光の粒子が溢れ出す。
……ユキ? ユキ? 嬉しい、うれしい、ウレシイ。
津波のような喜びが神経を伝って智樹の心を満たし、彼は泣きながら、けれど晴れやかに笑った。
「そうか、気に入ったか。……よろしくな、ユキ」
応えるように、白い光が眼前を舞った。