「――行こう、智樹。町へ戻るぞ」
篤司の静かな声が、庵の静謐な空気を震わせた。
智樹は、身体に巻きつけた毛布の端をぎゅっと握りしめる。一ヶ月以上、この異界の深い緑と、ユキの温かさだけに包まれて生きてきた。今の智樹にとって、ここから一歩外へ出ることは、あの日刺された時と同じくらいの覚悟を必要とした。
「……はい」
震える声で答え、一歩を踏み出す。
ユキが、智樹の不安を敏感に感じ取った。左腕の蔦が少しだけきつく巻かれ、そっと肩を撫でる。「だいじょうぶ。ユキ、いっしょ」という、言葉を超えた思念が智樹の胸に流れ込んできた。
一行は、長年人々を遠ざけてきた陰陽師の結界を――異界を抜けた。
その境界線を越えた瞬間、智樹はめまいがするような感覚に襲われた。
森の瑞々しい空気や、ユキと繋がっていることで感じていた「世界の声」が、急激に遠のいていく。代わりに鼻をつくのは、遠くから風に乗って流れてくる排気ガスの臭いや、電子機器が発する無機質なノイズ。
(……帰ってきた。いや、帰れるのか? この姿で)
ボロボロのジャケットの隙間から覗く斑入りの蔦。皮膚の下を這う緑の根。
「俺がついていく」
篤司の三白眼が、真っ直ぐに智樹を射抜く。それは監視ではなく、一人の冒険者を、一人の人間を守る者の眼差しだった。
「証言の場にも、その後の手続きにもな。一人で行かせるつもりはない」
「……篤司さん」
智樹は、自分を人間社会に繋ぎ止めてくれる唯一の錨を確かめるように、彼の方へと寄った。
町の外縁部まで来ると、人々の気配が急激に増した。
すれ違う冒険者や、物資を運ぶ業者たちが、次々と足を止める。
「……おい、あれ見ろよ」
「屍蔓憑き……か? 本当にいたのかよ」
好奇、驚愕、そして剥き出しの嫌悪。
向けられる視線の一つ一つが、智樹の皮膚を焼くように痛かった。学者が飛ばしているドローンに加え、周囲の野次馬たちが撮影のレンズを向けてくる。
智樹が足を止めてしまいそうになるたびに、隣を歩く篤司が、さりげなくその視線を遮るように前へ出た。
それでもこの状況をある程度覚悟していた智樹と違い、初めて異界の外に出て多くの無遠慮な気配に晒され、パニックを起こしそうになったユキが、棘を逆立てようと脈動する。智樹は慌てて、右手で自らの左腕を抑えた。
「ユキ、落ち着いて……大丈夫だから、怒っちゃダメだ」
思考だけでなく、敢えて声にも出す。それは篤司からの助言だった。言葉を発する訓練にもなるし、今はやり取りが明示的である方が周囲への心象も良い。
智樹の必死な宥めに、ユキは「不服そうなしょんぼり」を伝えながらも、蔦を大人しく畳んだ。
「堂々としてろ」
篤司の低い声が飛ぶ。
「お前は何も悪いことしてない。生き抜いただけだ。……前を向け、智樹。目的地はすぐそこだ」
見上げる先に、見慣れた、けれど今は異形を拒絶する要塞のようにも見える建物が現れた。
冒険者協会。
深山智樹という人間が終わり、この奇妙な共生が始まったあの日について「審判」を行う場所。
――本当に、それだけだろうか。
智樹が無意識のうちにふるりと震えたのを、篤司の鋭い視線が捉えていた。
冒険者協会の自動ドアが開くと、暖房の効いた乾いた空気と共に、幾重にも重なる「人間の視線」が智樹を刺した。
喧騒が潮が引くように消え、静寂と共に抜き身の刃のような緊張感がホールを支配する。受付の職員が、智樹の姿を認めた瞬間に息を呑み、カウンターの下で防犯用の魔道具に手をかけるのが見えた。
「――高峰だ。保護した証言者を連れてきた。奥の個室を貸せ」
篤司の低く、有無を言わせぬ声が静寂を切り裂いた。彼は一切立ち止まることなく、智樹の肩を抱くようにしてホールの中心を突き進む。智樹は足元に絡みつこうとする恐怖を、ユキから伝わる微かな温かさで必死に押し殺した。
通されたのは、防音と物理障壁が何重にも施された取調室に近い個室だった。窓のない四角い部屋に、機能的な机と椅子。そこはかつて、新米冒険者として朧げに未来を思い描いた受付カウンターとは正反対の、無機質で断罪的な空気が満ちていた。
「ここに座れ。ユキも、少しだけ我慢してくれよ」
篤司に促され、智樹は椅子に深く腰を下ろした。ユキは智樹の緊張を察していたが、篤司の言葉に「おとなしくしてる」と伝えるように、蔦の脈動を静めた。
やがて扉が開き、何名かの協会の役員と記録係が入室してきた。彼らの少なくとも半数は、智樹の左腕や首筋を這う「根」を、隠そうともしない嫌悪と観察の入り混じった目で見つめた。智樹には、そう感じられた。
「……では、深山智樹君。君の身に起きたこと、そしてその『状態』について、記録を開始する」
役員の一人が、冷淡に告げた。智樹は、乾いた喉を一度鳴らした。
話し始めなければならない。自分が、人間を辞めたわけではなく、ただ「生き延びた」のだということを。
けれど、いざ口を開こうとすると、一ヶ月以上人間と喋っていなかった声帯が悪意に怯み、錆びついた扉のようにきしみ、言葉を拒んだ。
「お、れ……は……」
言葉が、出ない。智樹の手が、無意識に毛布の端を握りしめた。
その時、机の下で、ユキの細い蔦がそっと智樹の指に絡みついた。
(ともき、ユキ、いっしょ。だいじょうぶ)
心の中に響くその思念が、智樹の凍りついた喉をわずかに溶かした。
コトリ、と音がした。篤司が智樹のドローンを、机の上に置いた音だった。
智樹は篤司の顔を見た。篤司は、ただ黙って、頷いた。
「……薬草を、見つけました。そしたら、先輩たちが……」
智樹は、震える声で一歩ずつ、真実へと歩み始めた。
智樹の証言に役員たちの間で騒めきが広がり、語り終えた智樹は俯く。語っているうちに握り締められた拳は小さく震え、ぽたりぽたりと落ちた涙を受け止めた。その頭に、篤司がそっと手を置いた。
「よく言い切った」
篤司は次いで、机の上に置いた「ボロボロのドローン」をツールで操作する。
「今回の件は、ちゃんと証拠がある。このドローンの記録だ」
ツールからのコマンドを受けたドローンは、微かな駆動音と共に投影ディスプレイを出現させた。そして、最期の力を振り絞るように、あの日、智樹を刺した男たちの嘲笑を再生し始めたのである。
静まり返った室内で、ドローンの映像だけが残酷な真実を語り続けていた。
映像が終わると、役員の一人が震える手で眼鏡を拭い、重苦しく口を開いた。
「……ドローンの記録を確認した。あなたの証言と、完全に一致している」
智樹の肩から、微かに力が抜けた。入室してから強まっていた、「協会の現場職員は信じてくれても、役員は信じてくれないのではないか」という不安から、ようやく解放されたのだ。
証拠品としてのドローンを提出して協会の仮眠室を借りた翌日、智樹は協会から、かの冒険者たちに関する衝撃的な調査結果を報告された。
「今回捕縛された者たちは、殺人未遂と虚偽報告の罪で正式に起訴されました。さらに……」
篤司が智樹の横で腕を組み、厳しい表情で続きを促す。
「余罪が、次々と発覚しています。彼らは以前から、身寄りのない新人を狙って手柄を横取りし、邪魔になれば『異界で死んだ』ことにして切り捨ててきたようです」
智樹だけではなかった。彼が生き延びて、このドローンを持ち帰ったからこそ、闇に葬られてきた多くの被害者たちの無念が明るみに出たのだ。
「永久的な資格剥奪は当然として、彼らには終身刑が下される見通しです」
協会役員の言葉を聴きながら、智樹は複雑な思いに駆られた。もしもユキに出会わなければ、自分もその「消えた新人」の一人になっていたはずだった。ユキがそっと智樹の頬を撫で、「ここにいるよ」と伝えるように思念を送ってきた。
そして、話題は智樹自身の「処遇」へと移った。
本来、屍蔓に憑かれた者は魔物として殺処分か隔離が通例だ。しかし、今回の事件は学者と篤司の配信によって世間に広く知れ渡っていた。特にユキが今までの屍蔓にない慈愛の行動を取った――泣く智樹を慰めた場面に至っては、切り抜き動画も多数作成されているほどだという。
「世論は完全に、あなたの味方です。『被害者である少年を救うべきだ』という声が圧倒的で、協会としても無視できません。そこで……」
役員が厳しい顔をわずかに和らげ、決定事項を告げた。
「深山智樹君。あなたの身の安全と、周辺への影響を考慮し、あなたは『保護観察』という扱いになります」
「……殺されない、んですね」
智樹の呟きに、篤司が「当たり前だ」と低く応える。
ただし、「保護観察」と言うからには条件があった。異界の外でもドローンによる常時録画を継続すること。そして、身寄りのない智樹には公的な後見人も必要だった。
「後見人は、俺が引き受ける」
篤司が迷いなく断言した。智樹が驚いて横を見ると、彼は三白眼を役員に向けたまま続けた。
「保護観察の担当も兼ねる。元々、協会が新人を守れなかったのが原因だ。同じ協会職員として、俺が責任を持って、こいつの面倒を見る」
手続きの合間、篤司は智樹にだけ聞こえる声で、少し気まずそうに付け加えた。
「……安心しろ。お前のドローンに残っていた、残りの『中身』――パニックになってた映像なんかは、協会の確認担当しか見ていない。守秘義務の対象だ。外部に出ることはないぞ」
智樹の顔が、一気に真っ赤に染まった。
水辺で頭から突っ込んで水をがぶ飲みしていた姿や、「何も出ていない」ことに気付いて絶叫していた情けない姿。それら全てを、協会の大人たちに見られていたのだ。
「……死にたい」
「生きろ。その黒歴史を守るためにな」
篤司の不器用な励ましに、ユキも同調して「げんきだして」と励ますように白い光をポコポコと溢れさせた。