白衣の上に纏った防護ガウンの袖に、湿った花弁が張り付いた。
 不規則な横隔膜の痙攣の末、患者さんの喉からまた一つ、寿命を削って赤紫の花が吐き出される。
 わたしはそっと手を伸ばし、落ちかけた花を受け止めた。周りは毎回有り得ないと言いたげな目を向けてくるけれど、だからっていたずらに床に落とし、踏みにじって良い物でもないはずだ。
 花弁は仄かに光を放っており、何か微細な粒子を纏っているのだろうと推測された。感染経路のはっきりしない現状、診察するわたしたちには防塵マスクや防護ガウン、手袋の着用が欠かせない。

「……どうせ長くないんでしょうけどね」
 隣でカルテに記入していた同僚が、小声で呟いた。
 
 独身だから迷惑をかける相手もいないだろうとこの隔離病棟に配属され、彼は酷く荒れていた。
 わたしも書類上独身だという理由だけでここに配属されたので、理不尽を感じないと言えば嘘になる。でも、それを患者さんにぶつけるのは、違うだろう。
 
 だからわたしは、聞こえなかったふりをする。患者さんの冷たい指先が震えるのを両手で包み込むように握り、声をかけた。
「大丈夫ですよ。ゆっくり呼吸を整えて。わたしが傍にいますから」
 虚ろな眼差しがわずかに揺れ、患者さんは力なく首肯いた。その唇に残った花弁をガーゼで拭いながら、わたしは胸の奥で嘆く。
 どうして、こんな病気が。

 花吐き病。かつて創作の題材として消費され尽くした言葉が、今では現実の病名として使われている。
 片想いや失恋といった甘やかな寓話ではない。ここで吐かれる花は肺を蝕み、胃を傷つけ、命を確実に削っていく。

 患者さんが握り返してくる力が、わずかに緩むのを感じた。眠りに落ちたのだろう。
 その安堵を見届けてから、静かに息を吐いた。

「先生、そろそろ時間です」
 電子カルテの端末から通話アプリ越しに、病棟の外に控えている看護師の声がする。
 同僚と共に病室を出てマニュアル通りの順番に防護ガウンなどを脱ぎ、専用の廃棄ボックスに押し込んだ。
 白い廊下には、どこからか漂ってきた甘ったるい香りが染みついていた。
 それは、たったいま吐き出されたばかりの花々の、かすかな匂いだった。

 どうせ長くはない、と吐き捨てられた言葉が、耳から離れない。今更、灯香と——同棲しているパートナーと入籍したところで、隔離病棟の担当が変わることはないし、わたしも患者さんたちを見捨てられない。
 でも、わたしも長くないかもしれないなら、せめてわたしの遺産相続は……

第二章 交わらぬ契り(灯香)