「また……か」
 研究棟の無機質な廊下に、低く鈍い衝撃音が響いた。壁一枚隔てた向こう側で、何かが激しく壊される音。すれ違う研究員たちが、「また欠陥個体が暴れている」「感情シミュレーターのバグだ」と忌々しげに吐き捨てるのを、俺はいつものように無表情でやり過ごした。

 ここは、「最新のアンドロイド開発」を行っている企業の開発研究棟だ。俺もその言葉を疑いもしていなかった。
 最近この企業に就職した俺、糸蔵(いとくら)空也(くうや)の仕事は、その試作機たちの義躯(ボディ)を製作し、微調整することになる予定だ。今はオリエンテーション期間中。

「糸蔵、そろそろ我が社に慣れた頃だろう? プロジェクト『暁斗(あきと)』の義躯がまた破損した。お前が調整に行ってこい」

 俺を採用した上司が差し出してきたタブレットには、無残に歪んだ人工合金のフレームが映し出されていた。上司が特に熱心に取り組んでいるこのプロジェクトのアンドロイドは、時折理解を超えたプログラム反応を示す。自らの身体を破壊するほどの負荷をかける自損行動。それは開発者たちの間で「感情出力を過剰に設定したためのバグ」と呼ばれていた。
「……了解しました」
 俺は短く答えた。人付き合いは苦手だが、機械と向き合っている時間は落ち着く。言葉を持たない部品たちは、こちらが正しく接すれば、正しく応えてくれるからだ。

 重厚なセキュリティドアを開け、俺は「暁斗」が収容されている調整室へと足を踏み入れた。
 室内の空気は、焦げた電子部品の臭いと、重苦しい殺気に満ちていた。部屋の隅に、拘束ベルトを引きちぎり、右腕の外装を剥き出しにした「アンドロイド」が座り込んでいた。

 暁斗。人間らしい名を持つアンドロイドの瞳は、あまりに精巧なカメラレンズでありながら、燃えるような「怒り」を宿していた。
「……また、新しい『修理屋』かよ」
 掠れた声が、室内に響く。俺はその瞬間、この機体の「人格プログラム」の完成度の高さに、ある種の感銘すら受けていた。開発者の連中が言うようなバグなどではない。この個体は、本気で俺たちを拒絶している。

「糸蔵という。義躯(ボディ)の、不具合を確認しに来た」
 俺は努めて淡々と、工具鞄を床に置いた。暁斗は鼻で笑い、剥き出しになった機械の腕を俺の前に放り出した。
「不具合? ああ、大ありだ。この身体は、俺のものじゃない。……反吐が出るんだよ」
 その言葉に含まれた「人間味」に、俺は返す言葉を見つけられなかった。ただ、膝をついて、彼の壊れた腕に手を触れる。

 触れれば、人工皮膚はほんのりと温かかった。ここまで「人間味」を追求するアンドロイド開発プロジェクトは、そうそうないだろう。
『……よくできている』
 表層的な思考は、その技術力の高さに向けられていた。だが、その裏側で、なぜか胸の奥が騒ぐのを、俺は「機械への愛着」だと解釈した。

「……少し、診せてくれ」
 俺はそう言うと、椅子を引き寄せるのではなく、床に座り込んでいる彼の前にそのまましゃがみこんだ。
 立ったまま見下ろせば、威圧感を与えてしまう。たとえ相手が高性能なAIを搭載したアンドロイドだとしても、不具合を起こして過敏になっている機体に対しては、同じ目線の高さで接するのが最も効率的だと、この時の俺は考えていた。だが、それが周囲から見れば、ひどく奇妙な「敬意」に見えることには気づいていなかった。

 暁斗は、至近距離まで降りてきた俺の顔を、射抜くような鋭い視線で睨みつけてきた。
「何だよ、その目は。……お前も、俺の中に『バグ』を探しに来たんだろ」
 吐き捨てられた言葉に、俺の喉はいつものように沈黙を選んだ。

 俺は口下手だ。周りからずっとそう言われてきたし、自分でもそう思う。気の利いた反論も、機体をなだめるようなマニュアル通りの言葉も出てこない。だから代わりに、俺は彼の瞳を、逸らさずにじっと見つめ返した。
 それは観察でも、威嚇でもなかった。
「あなたの話を聞いている」という、俺なりの無器用な表明だった。
 数秒の沈黙。

 暁斗の(レンズ)の奥で、絞りが微かに動く音が聞こえる。彼は俺の視線の中に、侮蔑も恐怖も含まれていないことに戸惑ったのか、わずかに毒気を抜かれたように視線を泳がせた。
「……勝手にしろ。どうせ、どこをいじったって、このくそったれな身体からは逃げられねえんだよ」
「じゃあ、応急修理するぞ」
 俺はそう伝え、彼の剥き出しになった右腕をそっと手に取った。
 人工皮膚の質感はしっとりと肌に馴染み、内部のフレームからは駆動に伴う熱が伝わってくる。
 診断用デバイスを接続し、ログをスキャンする。
 エラーコードが視界を埋め尽くすが、俺の指先が探しているのは数値化されない「歪み」だった。
「……ここは、動きが硬いな。次はもっと、余裕を持たせた設計にするのが良いか」
 俺の独り言に、暁斗は黙って応じなかった。
 だが、彼が暴れるのをやめ、俺の作業をじっと見つめているのを肌で感じた。

 俺はただの「修理屋」として、目の前の精密な機械を直しているつもりだった。
 彼が、監視カメラの死角から連れてこられた「人間」であることなど、この時の俺はまだ、塵ほども疑っていなかったのだ。

第二話:奪われた夜(暁斗視点)