重厚なセキュリティドアが閉まる音が、やけに遠くに聞こえた。
さっきまで目の前に膝をついていた、あの『修理屋』——糸蔵とか言ったか——が去った後の調整室は、また元の、息が詰まるような電子音の海に引き戻された。
修復された右腕を動かしてみる。糸蔵はかなり腕が良い『修理屋』なのだろう、応急修理とか言っていたのに指の先まで自分の意志が淀みなく伝わる。だけど、その滑らかさがかえって薄気味悪い。
視界の端で常に明滅しているシステム・ログ。正常稼働を示すグリーンの文字が、俺の意思とは無関係に視界を汚していく。
こいつは俺の身体じゃない。精密に、そしてあまりに非人間的な効率で組み上げられた、ただの義躯だ。
壁にもたれかかり、目を閉じる。まぶたの裏にまで焼き付いた電子的な残像を振り払いたくて。
なのに、今度はあの『くそったれな夜』の光景が、呪いのように脳裏に再生される。
あの日、俺はただ、仕事を終えて家に帰る途中だった。
夕食の献立や、明日やるべき仕事のこと。そんなありふれた、どこにでもある『人間』の思考を巡らせながら歩いていた。いつも通る商店街が混んでいたから、ほんの気まぐれで、街灯の少ない路地裏をショートカットした。
そこが、公道の監視カメラ網の隙間——たまたま生じていた『死角』だったなんて、知るはずもなかった。
静寂が、あまりに深すぎたのだ。
背後から近づく足音も、衣擦れの音も、一切の気配がなかった。
一瞬の衝撃。それは痛みというより、世界そのものが背後から断絶されたような感覚だった。
それから、視界が真っ暗に塗り潰された。
抵抗する間も、助けを呼ぶ叫びを上げる暇もなかった。
次に目が覚めたとき、俺は、俺じゃなくなっていた。
天井の眩しい光。思考を乗っ取るような消毒液と、油の匂い。
叫ぼうとしたのに、声が出なかった。喉に異物が突き刺さっているような、不快な感覚。
身体を動かそうとしても、自分の手足がどこにあるのかすら分からない。ただ、脳の中に直接、視界に明滅しているのと同じ、膨大なエラーログが流れ込んでくる。
「身体」という境界線が消え、自分がプログラムの断片になったような恐怖に、俺はただ震えるしかなかった。
「……コア・カプセルが無事に起動したか。義躯との接続は、まだ時間が掛かっているな……初回起動だからか?」
上から覗き込んできた白衣の男たちの目は、怪我人を案ずる医者のそれじゃなかった。
新しく買ったデバイスの起動を確かめるような、冷徹な点検の目。
彼らにとって、俺の恐怖も、絶望も、ただの「不安定な数値」でしかなかった。
「材料は健康な一般人だ。初めての生体データとしては申し分ない」
「やたらとノイズ信号を発しているな。周囲の機器に悪影響だ。早めにフィルターを作るか」
材料。
あいつらは、俺のことをそう呼んだ。部品。素材。調達品。
日向暁斗という人間は、あの日、あの路地裏で死んだのだ。
残されたのは、脳の記憶を電子回路に移し替えられた、人間の形をした『不老不死の実験体』。
それからの日々は、地獄ですらなかった。
機械の身体に閉じ込められた俺を、周りもただの機械として扱った。
俺が怒り狂って叫んでも、それは「音声合成エンジンのバグ」として、強制的にトーンを下げられた。泣いたときは「ちゃんと落涙機能が実装できている!」とかえって喜んだヤツらがいて、そのあまりの気持ち悪さに、泣くに泣けなくなった。
誰も俺の話を聞かなかった。誰も俺の目をちゃんと見なかった。
俺がどれだけこの理不尽さを訴えようとしても、「バグだ」と一蹴される。
俺は、ただの役に立たない『問題作』として、この部屋で壊れては直されるのを繰り返すだけの部品だった。
なのに——。
俺は、先ほどまで自分の右腕に触れていた、あの温もりを思い出していた。
糸蔵。
あいつは、他の連中とは違っていた。
俺を見下ろさなかった。
俺の前に膝をついて、しゃがみ込んで——俺と同じ高さで、俺の瞳をじっと見つめ返した。
あいつの瞳の中には、俺を『ただのプログラミングされた機械』だと見なす冷たさも、バグを恐れる蔑みもなかった。
あいつは、俺のシステムログではなく、俺そのものを見ていた。
「あなたの話を聞いている」
言葉にはしなかったが、あいつの目は、確かにそう言っていた。
……馬鹿馬鹿しい。どうせあいつも、組織に雇われた人間の一人だ。
ただの『修理屋』に、何ができる。俺をここから連れ出す勇気も、組織を敵に回す力も、あいつにはないはずだ。
それでも、修復された指先が微かに震えるのを、俺は止めることができなかった。
機械にされたはずのこの身体が、俺の絶望に反応して震えている。その事実が、皮肉にも俺に、自分がまだ失っていない「何か」を自覚させた。
俺はまだ、人間なのか。
それとも、人間だった頃の記憶を精巧にコピーされただけの、ただの機械なのか。
その答えを知っている奴は、このくそったれな世界のどこにも、一人もいなかった。