自宅に戻っても、指先に残ったあの「温もり」の感覚が消えなかった。
プロジェクト『暁斗』の義躯を調整してから数日が経過していたが、俺は暇さえあれば、あの日持ち帰ったログ・データをモニターに映し出していた。
「感情出力を過剰に設定したためのバグ」。
上司たちはそう切り捨てた。だが、何度ログを読み込んでも、俺にはそれが単なるプログラムの暴走には見えなかった。
エラーコードの羅列。通常のアンドロイドなら、論理回路が破綻して機能停止に陥るはずの数値だ。しかし、この機体のデータは、破綻しながらも一つの方向性を持って叫んでいるように見えた。それは冷たいバイナリの羅列が、必死に体温を求めて喘いでいるような、異質なリズムを刻んでいた。
「……シミュレーションにしては、複雑すぎる」
俺はキーボードを叩く手を止めた。
自分で同じようなプログラムを組もうとしても、どうしても再現できない。暁斗のような反応は、出力されない。
どんなに複雑な乱数生成器を通しても、彼の見せる「揺らぎ」には届かない。
それは計算機が導き出す『偶然』ではなく、長い時間をかけて澱のように積もった何かが、一気に溢れ出したような……そんな圧倒的な質量を伴っていた。
これでもプログラミングは趣味の一つで、少しは上達したように思っていたが、どうやら気のせいだったようだ。
機械は嘘をつかない。俺が愛する機械の世界は、常に因果関係で成り立っている。入力に対して、演算された出力が返る。そこに「迷い」や「矛盾」が入り込む余地はないはずだった。
だが、あの日出会った暁斗の瞳は、レンズ越しに俺の言葉を待っていた。それは、最適解を探すAIの処理プロセスなどではなく、もっと泥臭く、不器用な「対話」のように感じられた。
「糸蔵、プロジェクト『暁斗』の義躯がまた破損した。お前が調整に行ってこい」
翌日出社するなり下された上司の指示に、俺は無言で頷き、再びあの調整室へと向かった。
「不具合の詳細を聞く」——それが上司の言い草だ。だが、あいつらが求めているのは対話ではなく、バグの特定と排除に過ぎない。
ドアを開けると、室内の空気は前回よりもさらに荒廃していた。
暁斗は壁を背に座り込み、修復したばかりの右腕を自ら握りつぶしたかのように歪ませていた。
「……またお前か。律儀なことだな」
掠れた声。レンズが絞りを開閉させ、俺の姿を捉える。
俺はあの日と同じように、黙って彼の前に膝をついた。立ったままでは、彼の発する「ノイズ」が正確に読み取れないような気がしたからだ。
「義躯が……壊れている」
「ああ。壊したんだよ。俺の意思でな」
暁斗は投げやりに笑った。けれど俺には、その瞳は笑っていないように見えた
俺は彼の歪んだ腕に触れ、診断用デバイスを接続した。視界に流れ込むデータ。だが、俺はモニターを見ずに、目の前の男を見た。
「……不具合の、詳細を聞きたい」
「何度言わせりゃ気が済むんだ。この身体そのものが、不具合なんだよ。……俺は、こんなガラクタになりたかったわけじゃない」
その言葉の端々に、俺の知っている「アンドロイド」には存在しないはずの、生々しい「魂の重み」を感じた。金属と樹脂の塊であるはずの腕から、形のない悲鳴が伝わってくるようだった。
この企業の技術力なら、これほどまでに精密な感情シミュレーションも可能なのかもしれない。だが、俺の指先が触れている人工皮膚の下、微かに振動する駆動装置の律動は、まるで「震え」を必死に抑えている人間の筋肉のように思えた。
「……次は、もっと遊びを持たせる。関節の可動域も、君の『怒り』を受け止められるくらいに」
俺の言葉に、暁斗が目を見開いた。
「機体」や「個体」ではなく、無意識に「君」と呼んでいた。
エンジニアとして被験体を擬人化するのは最大の禁忌だ。それは客観的な判断を鈍らせる深刻なバグに他ならない。
分かっている。分かっているのに、目の前で剥き出しの感情を震わせている彼を、「モノ」として扱う術を、俺は持ち合わせていなかった。
「……お前、やっぱり変な奴だな」
暁斗はわずかに毒気を抜かれたように、視線を逸らした。その僅かな動作すら、俺には計算されたプログラムとは思えなかった。
俺は確信し始めていた。目の前にいるのは、単なるプログラミングされた機械ではない。あまりに「人間」らしすぎる。
いや、でも俺はこの機体の構造を知っているんだ。頭部にあるのはちゃんとメモリやCPUを積んだコア・カプセルという名の部品で、人間の脳味噌じゃない。
——本当に?
設計図を脳内に展開すれば、そこにあるのは無機質な回路の集積だ。金色の配線とシリコンのチップ。そこに『心』の居場所なんて、一ミリも残っていないはずなのに。
壊れた機械を直すのが俺の仕事だ。でも、もしこの「壊れ方」そのものが、この機体が持つ「人間らしさ」の証明なのだとしたら——。
俺は、一体何を「修理」すればいいのだろうか。俺はただの「修理屋」として、目の前の精密な機械を直しているつもりだったが、胸の奥のざらついた感覚を「機械への愛着」と片付けるには、あまりに重すぎる何かを感じていた。