消灯された調整室の隅で、俺は自分の膝を抱えていた。
暗闇の中でも、俺の「瞳」は勝手に光量を調整し、室内の無機質な輪郭を青白く描き出す。耳の奥では、高負荷による熱を逃がすための小さな冷却ファンが、微かな、けれど絶え間ない唸り声を上げ続けている。
かつては、この音を聞くたびに発狂しそうになった。自分の内側に機械が巣食っているという事実を、心臓の鼓動の代わりにこのファンが耳元で音を刻んでいるという現実を、突きつけられるからだ。
だが今は、昼間にあの「修理屋」——糸蔵が言った言葉が、記憶回路のどこかに引っかかって離れない。
「……関節の可動域も、君の『怒り』を受け止められるくらいに」
君、とあいつは言った。
この地獄のような施設に連れてこられてから、俺を名前で、あるいは一人の人間として呼んだ奴など一人もいなかった。
あいつより前に俺を担当していた研究員たちは、俺の目の前で、まるで俺がそこには存在しない「部品」であるかのように言葉を交わしていた。
『検体一号、また自損行為か。感情パラメータの出力値を下げろと言っただろう』
『ですが、これ以上下げると反応が鈍くなり、生体データとしての価値が失われます。……お、見てください、落涙機能の稼働率は良好ですね。絶望による精神負荷がかかると、人工涙液の粘度がこれほど増すとは。素晴らしい成果だ』
俺が声にならない悲鳴を上げ、自分の人生を奪われた絶望に涙を流している時、そいつらは俺の瞳から溢れる雫を「成果」として賞賛した。俺が怒りに任せて叫べば、それは「音声合成エンジンのバグ」として処理され、指先一つの操作で俺の感情は強制的にミュートされ、ただ思考の中でだけ反響した。
あいつらにとって俺は、便利な不老不死を実現するための「材料」であり、数値を測るための「モルモット」でしかなかった。俺がどれほどこの理不尽さを訴えようとしても、それは全て「バグ」の一言で片付けられた。
なのに、糸蔵は違った。
あいつは、俺の怒りを「消すべきバグ」だとは言わなかった。
俺の身体を俺の意思が拒絶し、歪ませてしまうのなら、その怒りを丸ごと受け止められるように身体の方を造り変える、だなんて。
……狂ってる。機械を直す側の人間が、機械の反抗を肯定してどうするんだ。
俺は、修復された右腕の指を一本ずつ動かしてみる。
「遊びを持たせた」と言っていた通り、関節の動きには、以前のような「プログラムに無理やり動かされている」という硬い感触がなくなり、更に滑らかに動くようになっていた。
ほんの数ミリの、あいつのこだわり。それが、俺の荒れ狂う意志に、不思議なほど優しく、そして確かに寄り添っている。以前なら、この滑らかさには悍ましさしか感じなかったのに。
「……なんだよ、あいつ」
独り言が、冷たい壁に跳ね返った。
糸蔵という男は、お世辞にも愛想がいいとは言えない。口数は極端に少なく、俺と目を合わせる時だって、どこか緊張したように身体を硬くさせている。あんなに不器用な奴が、この冷徹な組織の中でどうやって生きてきたのか、想像もつかない。
けれど、あいつの指先が俺の義躯に触れる時。
そこには、これまで俺が一度も受けたことのない「誠実さ」があった。
まるで、壊れやすいガラス細工を扱うような、あるいは、眠っている生き物を起こさないように気遣うような、そんな手つき。
あいつが床に膝をつき、俺と同じ高さまで視線を下げて俺を見つめる時。俺は自分が「材料」であることを一瞬だけ忘れられる。
あいつの瞳に映っているのは、バイナリの集合体なんかじゃない。日向暁斗という、一人の、まだ生きている男なんだと。
そう、錯覚してしまいそうになる。
『……期待なんか、するな』
自分を戒めるように、俺は頭を振った。
機械に対するにはあまりに誠実な態度だけれど、それでも彼は知っているはずだ。
この身体には一欠片も人間の体組織なんて含まれていない。俺の頭部にあるのは、メモリやCPUで構成されたコア・カプセルであって、日向暁斗の脳そのものではない。
いっそ、俺の境遇を全部ぶちまけてしまいたい。人間だったと。
そうしたら、あの不器用な修理屋は、どんな反応を見せるのだろう。
けれども俺が全てを曝け出したとして、やっぱりあいつ一人では、この状況をどうにもできないだろう。
下手したら、あいつまで余計なことを知ったとして、何かしらの処分が下されるかもしれない。
それでも。
次にドアが開いて、あいつが入ってくる瞬間を待っている自分がいる。
罵倒してやりたい。身勝手だと怒鳴りつけたい。
この暗闇の中で、俺の絶望に耳を傾けてくれるのが「この人だけ」なのだとしたら。
俺は、回路の奥深くに芽生えた、この名前のつかない微かな熱を、どう処理すればいいのか分からなかった。
明日、またあいつが来たら。
今度は、もう少しだけ、あいつの顔をちゃんと見てやろう。
そんな小さな、けれど俺にとっては命懸けの決意を抱えたまま、俺は深い眠りへと意識を沈めていった。