その日は、朝から嫌な予感がしていた。
プロジェクト『暁斗』に関わるようになってから、俺の日常は緩やかに、けれど確実に変質し始めていた。機械であるはずの彼が見せる、あまりに生々しい義躯への拒絶。ふとした瞬間に揺れる瞳。
エンジニアとしての理性はそれを「高度なシミュレーション」だと片付けようとするが、俺の直感は、それ以上の「何か」を嗅ぎ取っていた。
「糸蔵、少し時間を取れるか」
俺を採用した上司に呼び出されたのは、定時を少し過ぎた頃だった。
上司のデスクに表示されていたのは、暁斗の深層意識層のコード群だった。これまで俺が担当してきた「外装」や「義躯」の物理的な調整ではなく、もっと内側、AIの——人格の根幹に関わる領域だ。
「暁斗の情緒不安定さが、出資者の耳に入った。商品化に向けて、致命的な欠陥だと憂慮されている。……そこで、お前に『調整』を任せたい」
上司が差し出してきた端末には、具体的な修正項目のリストが並んでいた。
『感情出力の抑制:現行の40%まで引き下げ』
『特定の反応パターンの削除:怒り、悲鳴、過去への言及』
『自己認識パラメータの再構築』
リストをスクロールする手が、微かに震えた。
おかしい。アンドロイドのプログラムというのは、ゼロから積み上げていくものだ。望まない機能があるなら最初から組み込まないし、不要な反応があるならフラグを立てない。
なのに、この指示書は、あたかも「最初からそこにあるものを、力ずくで削り取る」ような書き方をしていた。そもそも『過去への言及』って何だ。
「……どうして、削除する必要があるんですか? プログラムを最初から組み直せば済む話では」
俺の問いに、上司は不快そうに目を細めた。
「そんな時間は無い。……いいか、糸蔵。お前は余計なことを考えず、言われた通りに数値を下げればいい。それがこの『製品』を完成させる最短ルートだ」
冷たい拒絶。
俺は「了解しました」と短く答え、その指示書を受け取って席に戻った。
だが、胸の奥で疼く違和感は消えるどころか、鋭い痛みとなって俺を突き動かした。
なぜ、感情を「削る」必要がある?
なぜ、こんなにも複雑な感情パターンが、意図せずに「発生」している?
なぜ、言及してはいけない「過去」がある?
俺は自分のデスクに向かい、端末を起動した。
俺の密かな特技——組織には「趣味程度」だと報告しているハッキングの技術を使って、プロジェクト『暁斗』のさらに奥、末端の技術者には公開されていない「過去の製造ログ」の深層へと潜り込んだ。
パスワードをバイパスし、暗号化された階層を次々と剥ぎ取っていく。
心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴っていた。見てはいけないものに近づいているという本能的な恐怖が、全身を駆け抜ける。
そして、俺はそれを見つけた。
『永続化実験』改めプロジェクト『暁斗』——資材調達リスト。
プロジェクトの前の名前が何だかおかしい。開発ではない。永続化——何を?
けれど、それ以上の衝撃があった。
金属、シリコン、人工皮膚、駆動モーター。並んでいる部品名の中に、それは紛れ込んでいた。
『材料:人間』
……は?
一瞬、思考が停止した。
文字列の意味が理解できず、何度も画面を読み返した。
材料……人間?
ログをさらに遡る。
そこには、日付、場所、そして「調達」された個体の属性が詳細に記されていた。監視カメラの死角。路地裏。健康な二十代男性。個体名:日向暁斗。
組織はアンドロイドを開発していたんじゃない。
生きた人間を仕入れ、その脳の機能を「部品」として移植していたんだ。
「……っ、う……」
胃の底からせり上がってきた吐き気を、必死に抑え込んだ。
俺がこの数日間、「高度なシミュレーションだ」と思い込みながら見ていたのは。
同じ高さまで視線を下げた俺を、じっと見つめていたのは。
機械なんかじゃない。
あの日、路地裏で人生を奪われ、身体を機械に置き換えられた、一人の「人間」だったんだ。
かつて彼が漏らした「俺はこんなガラクタになりたかったわけじゃない」という悲鳴も。
機械らしくない「人間」らしい反応の数々も。
全ては、紛れもない真実だった。
「これは、開発じゃない……。非道な人体実験だ……人を、仕入れてる……」
画面の光が、網膜を刺すように痛い。
指示書にあった「削除」の二文字が、今度は全く別の意味を持って襲いかかってきた。
彼らは、暁斗という人間の「感情」を、「人間らしさ」を、邪魔なノイズとして削り取ろうとしている。
俺に、その片棒を担げと言っている。
ガタガタと震える手で、俺はひそかにそのデータを外部ストレージに確保した。
明日、出資者の視察があるらしい。そこで暁斗が「失敗例」だと判断されれば、待っているのは俺の手による、彼の魂の抹消なのかもしれない。
だって既に、上司からの指示がある。視察を成功させるために、削れと。
今日だけなら、定時を過ぎたこの時間だから、何とか「調整」に失敗したふりをして誤魔化せるかもしれない。でも。
俺は、どうすればいい。
暗い部屋の中で、ただ青白く光るモニターを前に、俺は絶望に叩き落されていた。