その日は、朝から部屋の空気が張り詰めていた。
いつもなら調整室に来るのは糸蔵一人か、せいぜい記録用のドロイドが数機随伴する程度だ。だが今日は、白衣を着た連中が何人も出入りし、俺の視界を埋め尽くすホログラムの数値を血眼になってチェックしている。
空調の音を掻き消すような騒めきに包まれた室内で、俺の脳内ユニットが最も不快なノイズを撒き散らしていた。高負荷を告げる警告色が、視界の端で明滅を繰り返す。
「不老不死」を夢見る、この地獄の出資者——「オーナー」が視察に来る。
その事実だけで、俺の内部回路は激しく軋んだ。
「……おい、糸蔵」
隅で黙々と端末を叩いているあいつを呼んだが、返事はなかった。
今日の糸蔵は、明らかにおかしい。いつもなら俺が毒づけば短く応じ、不器用ながらに視線を返してくるはずなのに、今日は一度も俺と目を合わせようとしない。それどころか、あいつの顔色は人工皮膚よりも白く、コンソールを叩く指先は微かに震えているように見えた。
まさか、あいつは何かを知ったのか? 俺がどこから「調達」されたのかを?
やがて、仰々しい足音と共に、数人の護衛を引き連れた老人が部屋に入ってきた。
贅を尽くした衣服に身を包み、肌には不自然な若返り処置の痕跡が生々しく残るその男こそが、この「組織」の頂点。俺という人間を「材料」として買い取った張本人だ。男からは高価な香水の匂いと、死を恐れる老人の腐臭が混ざったような不気味な気配が漂っていた。
「……これが、脳の機械化に成功した第一号か」
オーナーの声は、枯れ木のようだった。
彼は俺の目の前まで歩み寄ると、まるでショールームに飾られた最新の高級車を吟味するような手つきで、俺の頬を指先でなぞった。その指先の、死人のような冷たさに、俺は反射的に顔を背ける。
「っ、触るな……!」
俺の拒絶に、周囲の研究員たちが凍りついた。だが、オーナーは不快そうに眉をひそめただけだった。
「……情緒が不安定だな。シミュレーターの不備か?」
「いえ、それが……元の個体の『バグ』が予想以上に強く残存しておりまして。現在、感情出力の抑制プログラムを調整中ですが、強い拒絶反応を示しております」
プロジェクトリーダーが揉み手しながら答えるのを、俺は激しい吐き気を堪えて聞いていた。
バグ? 拒絶反応?
違う。俺はここにいる。お前たちの目の前で、生きた人間として怒り、絶望しているんだ。その悲鳴すら「不具合」として片付けるのか。
オーナーは興味を失ったように、俺から視線を外した。
「……私が欲しいのは、永遠に我が身の春を謳歌できる『完璧な器』だ。目覚めた瞬間に『俺は誰だ』と苦しみ、己の身体すら拒絶する不安定なガラクタではない」
ガラクタ。
その一言が、俺の「心」に鋭い刃を突き立てた。
あの日、路地裏で全てを奪われ、身体をズタズタに改造されてまで生き永らえさせられた結果が、これか。俺は「自分」であり続けるために苦しんできた。その苦しみこそが、俺が人間である証だと思っていたのに、この男にとってはただの不良品としてのノイズに過ぎないらしい。
「この技術で移植を行っても、自分がこうなる可能性があるのなら——『これ』は、失敗作だ。商品としての価値はない」
男は俺を指差し、「これ」と呼んだ。
一人の人間として生きてきた二十数年の歳月が、名前が、思い出が。
全て「失敗した仕様」として切り捨てられた瞬間だった。
「……処分するか、完全に自我を削り取ってから再調整しろ。機械化部門の予算は削らせてもらう。生体改造部門の方がまだ見込みがありそうだ」
オーナーは吐き捨てるように言い残し、一度も振り返ることなく部屋を去った。
残されたのは、重苦しい沈黙と、屈辱に震える俺だけだった。
「……聞いたか、糸蔵。他は次のプロジェクトに移る。この『失敗作』の後始末は、お前に任せる」
プロジェクトリーダーが、冷淡な声を糸蔵にかける。
「調整」するか、「処分」するか。
それは、俺という存在の完全な消滅を意味していた。自我を削られて思考を停止した操り人形になるか、あるいは物理的にスクラップとして捨てられるか。どちらにせよ、そこに日向暁斗という「人間」の居場所はない。
「……了解しました。処分、します」
一息分の沈黙の後、糸蔵の、掠れた声が聞こえた。
俺は絶望に視界を歪ませながら、ようやくこちらを向いた糸蔵の顔を見た。
あいつは、どんな顔で俺を終わらせるつもりだ。
昨日まで、俺の話を聞いていると、その瞳で語っていたあいつは。俺を「君」と呼び、俺の怒りに寄り添うように関節を調整したあいつは。
だが、俺の視線を捉えた糸蔵の瞳の奥には、今まで見たこともないような、激しい「悲哀」と「決意」の光が宿っていた。
せめて終わらせるなら己の手で、と、いうことか?
糸蔵は初めて、今から何をするつもりなのか、一切説明しなかった。
周りの職員たちの冷ややかな視線を背に受けながら、あいつは淡々と、調整室にあった物品を片っ端から箱に詰めていく。
予備のパーツ、メンテナンス用のグリス、俺のバイタルデータを記録していた端末。
「処分」という言葉とは裏腹な、あるいは逆に俺のいた痕跡すらも全てを「処分」するような、あまりに手際の良い、そして徹底的な片付け。
「おい、糸蔵……」
絞り出すように声をかけたが、糸蔵はやはり答えない。ただ、一瞬だけ、その指先が俺の肩に触れた。
震える指先。だが、そこには確かな力がこもっていた。
それはまるで、「何も言うな」と俺を黙らせるための、無言の合図のように思えた。
やがて、調整室の中はがらんとして、俺の身体が繋がれた最低限の維持装置だけが残された。
糸蔵は最後の大きな箱を閉じると、それを運び出す準備を始めた。
調整室の出口に立つ職員たちは、失敗作の後始末を押し付けられた若手の姿を嘲笑うように見つめている。
あいつは何を考えている。何も言わず、何もかもを運び出して。
俺をここから消すだけなら、電源を落として解体すれば済む話だ。なのに糸蔵は、大きな輸送用コンテナを俺の前に引き寄せた。
「……入れ」
短く、震える声で命じられる。
それは願いのようでもあり、断腸の思いで下された宣告のようでもあった。
俺は抵抗しなかった。いや、抵抗する気力すら湧かなかった。
どうせ終わるなら、最後にあいつの顔を見て終わるのも悪くない。そう、自嘲気味に思った。
糸蔵が俺の身体を支え、冷たいコンテナの中へと横たえる。
背中に当たる金属の感触が、俺がもうすぐ『ゴミ』として処理される現実を突きつけてくる。
「……お前、本気なんだな」
俺の言葉に、糸蔵は一瞬だけ、泣きそうな顔をしたように見えた。
だが、あいつはすぐに無表情を取り繕い、俺の胸元に繋がれていた最後の維持ケーブルを、迷いなく引き抜いた。
「ごめんな」
掠れた呟きが耳に届いた直後、コンテナの蓋が大きな音を立てて閉まった。
完全な暗闇。
外部の音は遮断され、聞こえるのは自分の内部で鳴り続ける冷却ファンの音だけ。
『処分』。
あいつはそう言った。
あいつはこの組織に、俺を消すと約束した。
そうか。結局お前も、俺の『中身』がどうなっているかなんて、興味はなかったのか。
俺が人間だったことも、どれだけ必死にここにいたかも知らないまま、ただ不器用に、けれど忠実に『仕事』を全うするつもりなのか。
俺は暗闇の中で、静かに意識の深度を下げていく。
あいつの震える指先が伝えていたのは、慈悲ではなく、これから俺を壊すことへの、ただの恐怖だったのだと。
そう自分に言い聞かせて、俺は深く、暗いスリープモードの底へと沈んでいった。