大型トレーラー「動く死角」の内部は、深夜の静寂に包まれていた。聞こえるのは、二台分の冷却ファンが回る低い唸りと、俺が叩くキーボードの規則的な打鍵音だけだ。
俺は、空也の「要塞」から少し離れた位置に増設された、俺専用のワークステーションに座っている。目の前のモニターには、空也が構築した幾重ものプロキシサーバーの接続状況を示すグラフと、自治体への問い合わせフォームが並んでいた。
「……よし。これで、よし。送信!」
俺は一際強くエンターキーを叩いた。画面上のプログレスバーが走り、やがて『送信完了』の文字が浮かび上がる。
俺が今やったのは、空也が「チート」じみた演算能力で見つけ出した監視カメラの『死角』について、自治体へ「不安を感じる市民」としてメールを送る作業だ。ただメールを送るだけだと思うかもしれないが、俺にとってはこれが、空也から課せられた過酷なハッキング修行の集大成だった。
組織のサイバー部門に逆探知されないよう、空也が用意した世界中のダミーサーバーを経由する複雑な匿名化経路を、俺自身のコア・カプセルで制御しながら維持し続ける。一歩間違えれば、俺たちの居場所がパケットの断片から割れる可能性がある。神経を削るような作業だが、これを行わなければ、この「くそったれな世界」で俺たちが生き残るための「牙」は手に入らない。
「……なあ、空也。今のパスの繋ぎ方、かなりスムーズだっただろ? 俺もちょっとは上達したんじゃないか?」
俺は椅子を回し、背後で別の難解なコードを弄っている空也に声をかけた。空也は視線をモニターから外さないまま、抑揚のない声で答える。
「……前回のセッションと比較して、経路の冗長化までの所要時間が一二%短縮されている。また、自治体のファイアウォールを刺激しない程度のパケット間隔の調整も、適切に行われていた」
「おっ、マジか」
「だが、三番目のダミーサーバーから四番目へ遷移する際、タイムスタンプの偽装に僅かな揺らぎがあった。……採点するなら、七〇点といったところだな」
七〇点か。手厳しいな、相変わらず。
だが、空也の「深層」を覗けば、あいつが俺の上達を意外に思い、ほんの少しだけ誇らしく感じているログが漏れ出しているのが分かった。こいつ、口では厳しいことを言いながら、心の中では俺が「共犯者」として育っていくのを歓迎しているんだ。
「七〇点なら合格点だろ。これなら、俺が一人で『市民の声』を量産しても、組織に足跡を掴まれることはなさそうだな」
俺は、自分がこの数時間で送信したメールの履歴を眺めた。
自治体への通報。それは組織が利用している「死角」を公的な光の下に晒し、彼らの狩場を奪うための嫌がらせだ。だが、この作業を続けているうちに、俺はある「もったいなさ」を感じ始めていた。
「なあ、空也。俺たちが組織のサーバーから資金を『せしめる』時に、ついでに引っ張り出してきたあのデータ……あれ、どうしてる?」
空也がキーボードを叩く手を止めた。
「……重要度の低い企業間の汚職メモや、出資者の不祥事の断片か? それらは現在、俺のローカルストレージの隔離セクターに『不要なログ』として圧縮保存されている。リソースを割く価値はないと判断した」
「それだよ。お前にとってはゴミかもしれないけど、これ、世の中には喉から手が出るほど欲しがっている奴らがいるんじゃないか?」
俺は椅子から立ち上がり、空也の横まで歩み寄った。
組織は不老不死を餌に、政財界のあちこちに根を張っている。その過程で生まれた「汚れ」は、彼らにとっては日常の破片でも、外部に漏れれば一国の政権が飛ぶような爆弾になるはずだ。
「俺のメール修行も、ただ組織を困らせるだけじゃなくて、実益を兼ねた方がモチベーションが上がる。……この『ゴミ』、売ってみないか?」
「売る? ……情報屋として活動する、ということか?」
「そう。俺たちのハッキングの腕試しも兼ねてさ。組織の息がかかった悪党の秘密を洗って、それをライバル企業や、恨みを持ってる連中に高値で売りつける。……高いけど確実、正体不明の『情報屋』。……最高に皮肉だと思わないか?」
俺の提案に、空也の瞳の奥で、高速な演算の火花が散った。
あいつは数秒間、その「非効率さ」と「可能性」を天秤にかけ、やがて、俺が初めて組織から資金を「せしめよう」と提案した時のような、静かで、冷徹な「ノリノリ」の光を瞳に宿した。
「……面白い。匿名化ポータルの構築、および暗号通貨による決済ルートの確立は、俺の演算能力なら一時間で完了する。君のメール修行の課題としても、裏社会のプロトコルを学ぶのは非常に有益だ」
「だろ? 組織への嫌がらせをしながら路銀も稼げる。一石二鳥だ」
「……暁斗、君の発想は、時として俺の論理を超えた『跳躍』を見せる。……よし、プロジェクトを承認する。今日から俺たちは、このくそったれな世界の片隅で、姿なき『情報屋』として機能することにしよう」
空也が再び猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。あいつの「深層」からは、新しいパズルに挑む子供のような純粋な高揚感と、俺と一緒に新しい「復讐」を始めることへの深い安堵が溢れ出している。
「……屋号はどうする、暁斗。……『死角』か? あるいは『ガラクタ』か?」
「いや。……名前なんて、ない方がいいだろ。……『匿名希望の市民』……いや、もっとシンプルに、ただの『ゴースト』でいい。……あいつらが捨てたはずの幽霊が、自分たちの秘密を売り歩いているなんて、知ったらどんな顔をするか楽しみだぜ」
俺たちは、青白いモニターの光の中で、不敵に笑い合った。
社会が俺たちを定義するために用意したあの「日向暁斗」と「糸蔵空也」の名は、もうどこにもない。
俺たちは、姿なき情報の番人。
この世界の「死角」から、巨大な墓標の足を掬う、最悪のバグだ。
翌朝、ネットの深淵に、一つの暗号化されたポータルサイトがひっそりと産声を上げた。
それが、組織を根底から揺るがすことになる「情報屋」の始まりだとは、まだ誰も、組織の連中ですら気付いていなかった。