深い、泥のような眠りの底から、意識がゆっくりと浮上してくるのを感じた。
 視界の端でシステムログが走り、再起動のプロセスが完了したことを告げる。耳の奥では、聞き慣れた冷却ファンの音が、静まり返った空間に小さく鳴り始めた。

(……まだ、生きてるのか)

 どんよりとした思考のなかで、俺は自嘲気味に思った。
 コンテナの蓋が閉まったあの時、俺はすべてを諦めた。電源を落とされ、バラバラに解体されて、産業廃棄物として溶鉱炉にでも放り込まれるのを待っていた。

 だが、再起動した俺のセンサーが捉えた情報は、あまりに「組織」のそれとは違っていた。 
 鼻を突く消毒液の匂いも、網膜を刺す無機質なLEDの光もない。
 代わりに鼻腔をくすぐったのは、古い紙の匂いと、微かな埃の気配、そして洗剤のような生活の匂い。耳に届くのは、防音室の死んだような静寂ではなく、窓の外を走る車の遠い走行音だった。

「……っ、は?」

 俺は勢いよく身体を起こした。
 そこは、処置室でも廃棄場でもなかった。
 使い古されたソファ、本や回路基板が乱雑に積み上げられた棚、そして生活感のあるキッチン。どこにでもある、普通の、誰かの「家」だった。
 そして床には、あの調整室から運び出されたはずの大きな箱が、山のように積まれていた。

「起きたか」

 聞き覚えのある、低くて抑揚のない声。
 振り返ると、カウンターの向こうで、糸蔵(いとくら)が椅子に座ってこちらを見ていた。
 あいつは、人工皮膚よりもさらに顔色を悪くして、ひどく疲れ切った顔をしていた。その手元には、研究室から「処分」の名目で持ち出したはずの俺のメンテナンスキットや、機材、そして資料が所狭しと並んでいる。

「……ここ、どこだ」
「俺の家だ」
「は? ……処分、したんじゃなかったのかよ」

 俺の問いに、糸蔵は視線を逸らした。
 あいつは少しだけ口を噤み、それから絞り出すように答えた。

「……偽装した。君をあのままあそこに置いておけば、君という『人間』が完全に消されるところだったから。……処分報告は上げた。あの企業にとって、日向(ひゅうが)暁斗(あきと)はもう存在しない」

 混乱が、熱い怒りとなって脳内を駆け巡る。
 助けられた? こいつの手で?

 組織を裏切り、俺を連れ出して、自分の家に隠したというのか。
「……正気かよ」

 俺はソファから立ち上がり、あいつに詰め寄った。
 
「処分って嘘ついて、勝手に箱に詰めて、勝手に連れ出して……お前、自分のやってることが分かってんのか! もしバレたら、お前だって殺されるんだぞ!」

 怒鳴りつける俺の言葉に、糸蔵は反論しなかった。
 言い訳も、感謝の要求もしない。ただ、力なく頷き、沈み込むように視線を落とした。その指先が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。

「……ああ。身勝手だったと思う。君の意思も聞かずに、勝手に決めた」

 あいつのその態度が、余計に俺の苛立ちを逆撫でした。

「ああ、身勝手だ! お前も結局あいつらと同じだ! 俺の意思なんか関係なく、いつもいつも勝手に——!!」

 叫びながら、俺はあいつを殴り飛ばしてやりたかった。
 なのに、糸蔵はただ「そうだな」と認めただけだった。

 あいつは、俺を助けたことを誇るでもなく、正義感を振りかざすでもなかった。
 ただ、ひどくボロボロな顔をしてそこに座っていた。
 殴りたいのに、殴ったらそのまま折れて消えてしまいそうなほど、あいつは沈んでいた。

「……でも。君を調整するのも、処分するのも、嫌だった。それだけだ」

 言い訳にもならない、ただの子供のような身勝手な告白。
 だけど、その言葉に含まれた純粋な拒絶の響きが、俺の怒りの行き場を奪った。
 あいつは、俺という『材料』を救ったわけじゃない。
 『人間』としての俺を、あいつ自身のわがままで、このくそったれな世界の片隅に繋ぎ止めたのだ。

「……何だよ、それ。……ふざけんなよ」

 毒気が抜かれた俺は、再びソファに深く腰を下ろした。
 窓の外では、夜の街が静かに、俺たちの不在など知らぬ顔で息づいている。
 俺たちはもう、戻れない場所に来てしまった。
 「処分済み」の機械と、すべてを捨てようとしている技術者。

 この静かすぎる部屋のなかで、俺は初めて、自分の指先をじっと見つめた。
 あいつが「遊び」を持たせて調整した、俺の怒りに寄り添うこの義躯(からだ)を。
 これからどうなるのか、どこへ行くのか、何も分からない。
 ただ、目の前でうなだれているこの男だけが、俺の「世界」のすべてになったのだということだけを、俺はぼんやりと理解し始めていた。

 その夜、俺は結局、一度もスリープモードに入ることができなかった。
 借り物のソファに身を横たえ、暗闇の中で天井を見つめる。視覚ユニットが捉える室内の光景は、どこまでも静かで、皮肉なほど平和だった。
 ふと、部屋の反対側から、低く押し殺したような呻き声が聞こえた。

「……っ、……ぅ」

 声の主は、床に敷いた安物の布団に丸まっている糸蔵だった。
 俺の「瞳」は、暗闇の中でもあいつの表情を鮮明に映し出す。糸蔵はひどくうなされていた。蒼白な額には脂汗が浮かび、眉間には深い皺が刻まれている。何かに怯えるように、あるいは何かを拒絶するように、その指先が床を強く掻きむしっていた。 
(……なんだよ、それ)

 俺は身体を起こし、音を立てずにあいつの傍らへ歩み寄った。
 本来、俺を作り替えた側の人間が、俺より苦しそうに眠っているなんて滑稽な話だ。俺を攫い、改造し、こんな無残な義躯(きかい)に押し込めた組織の一員なのだ。俺を連れ出したのだって、あいつ自身が認めた通り、ただの『身勝手』な独善に過ぎないはずなのに。

「……すま、ない……日向……」

 糸蔵の唇から、掠れた俺の名前が漏れた。
 その響きには、組織の連中が浮かべていた傲慢な愉悦感など微塵もなかった。ただ、取り返しのつかない罪を犯した者が抱く、救いのない後悔だけがこびりついていた。

 俺は、床に積まれたままの『機材の山』に目をやった。
 そこには俺の義躯(からだ)の設計図や、メンテナンス用のパーツ、そしてあいつが血眼になって掘り起こしたであろう機密ログが含まれている。あいつはそれを見てしまったのだ。自分がアンドロイド開発だと思って心血を注いできたものの正体が、ただの非道な人体実験だったということを。

 俺は、うなされ続ける糸蔵を見下ろしながら、複雑な感情の渦に呑み込まれていた。
 怒りは消えていない。勝手にすべてを決められ、こんな世界の片隅に放り出された理不尽さに、今すぐこいつの首を絞めてやりたいとすら思う。

 けれど、殴りたい相手が、殴る前から勝手に自爆してボロボロになっているような——そんな、やり場のない虚脱感があの怒りを上書きしていく。
 加害者のはずなのに、被害者よりも惨めな顔をして眠っているこの男を、俺はどう憎めばいいのか分からなかった。

「……馬鹿かよ、お前は」

 誰にも聞こえない声で呟き、俺は再びソファに戻った。
 あいつは結局、夜が明けるまで何度も悪夢に飛び起き、そのたびに俺がまだそこにいることを確認しては、また絶望に満ちた眠りへと落ちていった。

 俺たちの共同生活は、最悪な形で幕を開けた。
 罪悪感に押し潰されそうな技術者と、行き場を失った機械仕掛けの人間。
 窓の外から差し込み始めた薄暗い夜明けの光の中で、俺は自分とこの男の間に結ばれてしまった、くそったれな縁の深さを、嫌というほど思い知らされていた。

第九話:材料:人間(空也視点)