視界が、どろりとした黒に塗り潰されていた。
 暗い調整室のなかで、俺は独り、コンソールの前に座っている。モニターに映し出されているのは、一昨日目にしてしまったあの忌まわしいバイナリの羅列だ。 

『材料:人間』

 その文字列が、まるで生き物のように蠢き、画面から溢れ出して俺の腕に絡みつく。
 背後から、重い金属音が響いた。振り返ると、そこには解体された義躯(きかい)の山があり、その中心で暁斗(あきと)が——人間だった頃の彼が、虚ろな瞳で俺を見つめていた。

『身勝手だ』

 彼の唇が動く。俺が「遊び」を持たせて調整したはずの指先が、今度は俺の首を絞めようと伸びてくる。
 俺は叫ぼうとしたが、声が出ない。俺自身も、いつの間にか全身を硬い外装に覆われ、ただの「部品」へと造り変えられていた。

「……っ!!」

 弾かれたように飛び起きた。
 心臓が早鐘を打ち、全身が嫌な汗で湿っている。
 暗闇に慣れた目が、そこが組織の研究室ではなく、見慣れた自分の部屋であることを認識するまでに数秒を要した。

 視線を感じて顔を向けると、ソファの上に暁斗が座っていた。
 暗闇の中で、彼の『瞳』が微かに青白く光っている。彼は一言も発さず、ただ、うなされていた俺の無様な姿をじっと観察していた。

(……見られていた、か)

 いたたまれない羞恥心と、消えない罪悪感が胸を焼く。
 俺は彼を救ったつもりでいた。だが、結局は彼に「死ぬ自由」すら与えず、俺の都合でこの狭い部屋に閉じ込めただけではないのか。

 時計を見ると、夜明けまでにはまだ時間があった。
 だが、もう一度眠る気にはなれなかった。
 俺はふらつく足取りでデスクに向かい、端末を開いた。

 やるべきことは決まっている。後顧の憂いを断ち、この「逃避行」を確実なものにするための、最後の手続きだ。
 数時間後、俺は数枚の書類を鞄に詰め、上着を羽織った。
 顔色は最悪で、寝不足のせいで視界が少し歪んでいる。
 それでも、技術的な思考だけは、皮肉なほど冷静に回っていた。

「……ちょっと、出てくる」

 玄関で靴を履きながら、俺は背後の暁斗に声をかけた。
 彼は不機嫌そうに、けれどどこか探るような目で俺を見ていた。

「どこへ行くんだよ。処分報告、終わったんじゃねえのか」
「有給申請と、退職届を出してくる。……辞める理由も、もう決めてある。親の介護だ」

 暁斗は「正気か?」と言いたげな顔をしたが、俺はそれ以上何も言わなかった。
 俺がいなくなれば、この部屋の鍵は内側から開けられる。
 もし、彼が俺のことを信じられず、俺の独善に耐えられないと思うのなら。
 俺がいない間に、この家から逃げ出せばいい。

(……逃げるなら、今のうちだぞ)

 心のなかで、そう呟く。
 彼には選択肢が必要だ。俺に無理やり連れてこられた「安全」ではなく、彼自身の意思で選ぶ道が。
 たとえその結果、彼が再び社会の荒波に消え、俺の元を去ったとしても、それは俺が背負うべき因果でしかない。

「昼過ぎには戻る。……家にあるものは、好きに使っていい」

 俺はそれだけ言い残し、家を出た。

 職場に向かう足取りは重い。
 だが、退職手続きという「普通」の体裁を整えることで、怪しまれずに企業との縁を切る。逃げるのではなく、法的に、事務的に、存在を消していく。

 ふらふらとした足取りで駅へと向かいながら、俺は何度も後ろを振り返りそうになった。
 彼が今頃、誰もいない部屋で何を考えているのか。
 俺を裏切り者と呪って、どこかへ消えてしまうのか。

 祈るような、あるいは絶望を待つような奇妙な心地のまま、俺は朝の通勤ラッシュのなかに紛れていった。
 この数時間。それが、俺が彼に与えられる唯一の、そしてあまりに無責任な「自由」だった。

 研究棟のゲートを潜り抜ける際、網膜スキャンが走る。昨日までと変わらない無機質な緑の光が網膜をなぞるが、俺の心境は一変していた。この場所は、最先端の技術を謳いながら、その裏で「人間」を「材料」として調達し、使い捨てる巨大な墓標だ。 
 俺は、自分のデスクへと向かう途中で遭遇する同僚たちに、いつも通りに短く会釈を返した。元々、人付き合いが苦手で口数も少なかったことが、今は幸いしている。寝不足で最悪な顔色をしていても、誰も深くは追求してこない。

「……糸蔵(いとくら)、昨日のは終わったのか」

 背後から声をかけてきたのは、昨日の「処分」を命じた上司だった。

「ええ。報告書の通り、すべて廃棄セクターで処理済みです。機材の整理も終わりました」

 俺は淀みなく答えた。ハッキング技術を駆使し、偽造した廃棄証明とログをあらかじめシステムに潜り込ませてある。俺の「趣味」程度の腕前だと思われていた技術が、今はこの場所から俺たちを消すための最強の武器になっていた。

「そうか。まあ、あの『失敗作』にこれ以上時間を割く必要はない。次のプロジェクトの割り振りを——」
「……すみません。それについてですが、これを」

 俺は用意していた封筒を、リーダーのデスクに置いた。
「退職願」の文字。そして理由は事前に決めておいた通り、「実家の親の介護のため」と記してある。
 
 リーダーは驚いたように眉を上げた。

「退職?急だな。介護なら有給を消化してからでも……」
「いえ。状況が急変しまして……申し訳ありませんが、本日を以て有給休暇の消化に入り、そのまま退職させていただきたいと考えています」

 俺は、一見すると事務的で、しかし有無を言わせない冷徹な態度を貫いた。自分でも驚くほど、嘘がスムーズに出る。リーダーはしばらく不満げに俺を見ていたが、やがて溜息をつき、書類にサインをした。俺のような「不器用だが有能な歯車」が欠けるのは痛手だろうが、代わりはいくらでもいるという傲慢さが、あいつの顔には透けて見えていた。

「分かった。……有給の残りは二週間か。その間に引き継ぎ資料を纏めておけ。まあ、お前のことだ、既に終わっているんだろう?」
「……はい」

 実際には、引き継ぎ資料などほとんど残していない。重要そうなデータはすべて暁斗と共に持ち出したし、あとに残るのは、追跡を不可能にするための空っぽのフォルダだけだ。

 手続きを終え、俺はデスクの私物を最小限だけ纏めた。
 廊下を歩く間、心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り続けていた。もし、今この瞬間に廃棄セクターの偽造がバレたら。もし、暁斗のコンテナが見つかったら。

 ゲートを抜け、外の空気を吸った時、膝の力が抜けそうになった。
 俺はもう、この企業の一員ではない。
 同時に、この瞬間から、俺は世界でたった一人の「共犯者」になったのだ。

(……あいつ、まだいるだろうか)

 駅へ向かう道すがら、スマホで自宅のスマートロックのログを確認する。
 開錠された記録はない。
 暁斗が、俺の与えた無責任な自由を拒絶し、あの部屋に留まってくれているのか。あるいは、自力で脱出する術を探しているのか。

 俺はふらふらとした足取りで、自宅へと向かった。

第十話:技術者の城(暁斗視点)