玄関の鍵が閉まる音が響き、アパートの一室に静寂が戻った。
 俺はソファに深く沈み込んだまま、視界の隅でカウントされ続けるシステムクロックを眺めていた。糸蔵(いとくら)は「有給申請と退職届を出してくる」と言い残して、俺を一人残して出て行った。

 ……正気かよ、あいつ。

 俺がこのまま逃げ出さないとでも思っているのか、それとも、逃げ出したければ好きにしろという無言の提示なのか。どちらにせよ、不用心すぎる。

 俺は重い腰を上げ、初めて他人の「家」というものをまじまじと観察し始めた。

 そこは、お世辞にも「寛ぎの空間」とは呼べない場所だった。リビングの中央には、何枚ものモニターが並んだ要塞のような高スペックのパソコンが鎮座している。その周辺には、一般の家庭にはおよそ不似合いな精密な電子工作機器や、特殊なハンダステーション、ロジックアナライザが所狭しと並べられていた。
 棚には回路設計やプログラミングの専門書が溢れ、その隙間を縫うように、組織から「処分」の名目で持ち出した予備パーツの箱が天井近くまで積み上がっている。

 「修理屋」なんて名乗っていたが、あいつはただ仕事をこなすだけのサラリーマンじゃなかったんだ。ここにあるのは、機械を愛し、趣味の延長で技術を極めてしまったオタクの城だ。あんな冷徹な組織にいたのに、この部屋には、あいつが純粋に「造ること」を楽しんでいる気配が染み付いている。

 洗面所へ行き、鏡の前に立った。
 そこに映っているのは、見慣れた、けれどどこか他人のような自分の顔だ。
 光発電ユニットを織り込まれたこの黒髪も、体温を感じさせるほどほんのり温かい人工皮膚も、すべては出資者が「人間らしい生活」を望んだから搭載された贅沢な機能に過ぎない。見た目も触り心地もしっとりとして人間らしいのに、その下には循環する血の一滴すら流れていないのだ。

 俺は自分の右腕を見つめた。
 人工皮膚はほんのりと温かく、しっとりとしている。糸蔵が「遊び」を持たせたと言っていた関節を動かしてみると、駆動装置(アクチュエーター)が静かに、滑らかに反応する。組織にいた頃の、自分の身体を無理やり動かされているような嫌な硬さはどこにもなかった。

(……よくできている)

 皮肉にも、糸蔵と同じ感想が脳裏を過った。
 あいつは、俺という「材料」を修理していたんじゃない。この機械の身体を、俺自身の意志に馴染むように、必死にチューニングしていたんだ。

 デスクの上に置かれたままの端末に目が留まる。
 画面には、あいつが組織のデータベースから命懸けで抜き出した「調達ログ」が開かれたままになっていた。
 そこには、俺が攫われた夜の正確な日時と場所、そして……。

『材料:人間』

 その四文字が、視界に焼き付いて離れない。
 部品リストに、俺という人間が載っていた。
 ネジやモーターと同じ列に、俺の人生が並べられていた。
 あいつはこれを見て、一晩中うなされていたのか。自分を「加害者」だと断じて、ボロボロになりながら、俺を箱に詰めて連れ出したのか。

 窓際に近づき、遮光カーテンの隙間から外を覗いた。
 眼下には、平凡な住宅街の景色が広がっている。昼下がりの街を、何も知らない人間たちが歩いている。
 ここを出て、あの雑踏に紛れれば逃げられるかもしれない。
 だが、俺はすぐにその思考を捨てた。

 逃げて、どうする。
 俺の身体は定期的なメンテナンスなしでは、いずれガタが来る。特に背中の関節や、頭部の「コア・カプセル」の精密診断なんて、自分一人では物理的に手が届かないし、不可能だ。そして何より、俺はもう公式には「処分済み」の存在なのだ。
 外に出た瞬間、俺はただの「動くガラクタ」として、組織に再び狩られるか、路地裏で朽ち果てるかのどちらかだ。

「……クソが」

 俺は、床に積まれた段ボール箱の一つを蹴飛ばした。
 中から転がり落ちたのは、俺専用の義躯(ボディ)メンテナンス用グリスの缶だった。

 糸蔵は、俺が逃げないことを見越していたわけじゃないだろう。
 あいつはただ、自分が犯した「罪」の重さに耐えきれず、俺という「被害者」に選択肢という名の爆弾を押し付けて、逃げるように外出しただけだ。

 うなされて、汗をかいて、ボロボロになって。
 俺をこんな身体にした張本人の一人なくせに、被害者みたいな顔をして俺を救おうとしている。
 あまりに身勝手で、あまりに不器用だ。

 逃げられるはずのドアを見つめる。
 けれど、俺の足は一歩も動かなかった。
 このくそったれな世界の片隅で、俺を「部品」ではなく「人間」として扱おうとしたのは、あの不器用すぎる修理屋だけだったのだから。

 数時間が経過し、西日が部屋の奥まで差し込み始めた頃、玄関の鍵が回る音がした。
 扉が開き、入ってきた糸蔵は、朝よりもさらに酷い顔をしていた。手続きのために「組織」という戦場へ戻っていた緊張の糸が切れたのか、あいつは玄関先で力なく肩を落としている。

 俺がソファに座ったまま無言で睨みつけると、糸蔵はようやく俺がまだ部屋にいることに気づいたようだった。あいつは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの抑揚のない声でこう言った。

「……なんだ。思ったより大人しくしてたんだな」

 暴れるなり、逃げ出すなりしていると思っていたのか。あまりに無神経なその一言に、俺の胸の中でふつふつと不機嫌な熱が湧き上がった。

「……お前、俺を何だと思ってるんだよ」

 俺がぶすっとした顔で言い返すと、糸蔵は「……まあ」とだけ答え、力なく椅子に沈み込んだ。

 命懸けで逃避行を始めたはずなのに、最初の一言がそれかよ。俺は心底呆れながらも、あいつのその「いつも通り」の不器用さに、ほんの少しだけ毒気を抜かれている自分に気づいて、さらに気分を害した。

第十一話:継承(空也視点)