玄関の扉を開けたとき、俺の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
もし、部屋が空っぽだったら。あるいは、暁斗が逆上して部屋を荒らし、俺を殺そうと待ち構えていたら。
だが、視界に飛び込んできたのは、西日に照らされたソファに座り、不機嫌そうにこちらを睨む暁斗の姿だった。
無事にそこにいたという安堵と、この先一生、彼の人生を背負い続けなければならないという現実の重みが、同時に俺を押し潰そうとする。
「……なんだ。思ったより大人しくしてたんだな」
出たのは、そんな無神経な言葉だった。自分でも呆れるほど、人との接し方が分からない。
案の定、暁斗は「お前、俺を何だと思ってるんだよ」とぶすくれた顔で言い返してきた。
俺はそれに答える余裕もなく、力なく床に沈み込んだ。組織での退職手続きは、偽装工作と緊張の連続だった。これで、書類上俺たちは死角に消えたことになる。
俺は、床に積まれた段ボール箱に手をかけた。中には、処分名目で持ち出した義躯のパーツやメンテナンスキットが詰まっている。
これを見ている時だけが、俺の心が技術者としての冷静さを取り戻せる瞬間だった。
「日向、こっちへ。……メンテナンスのやり方を教える」
「は? 俺に?」
「そうだ」
俺は自分に言い聞かせるように、言葉を継いだ。
「君の身体は、定期的な点検が必要だ。外装の交換、関節のグリス補充……。これらは本来、俺の役割だが、俺がいつ死ぬか分からない。認知症になる可能性だってある。……そうなった後、君が『ガラクタ』にならないために、自分で自分を直せるようになってもらいたい」
メンテナンスを教えると言った俺に、暁斗は呆れたような、あるいは苛立ったような溜息を吐いた。
「おい、その前に何か食え。……お前、鏡見たことあるのか? 死人より顔色が悪いぞ」
怒鳴るような声に気圧され、俺は自分の頬に触れた。確かに、指先が触れた肌は自分でも驚くほど冷え切っている。組織での緊張、寝不足、そして罪悪感。それらが俺の生命維持に必要なリソースを、内側から食い潰しているのは自覚していた。
俺はふらふらとキッチンに向かい、棚から適当なインスタント食品を取り出した。自分用のものと、そしてもう一つ、暁斗のために、組織から持ち出した『分解用ユニット』に対応した調整済みの食品を。今後、テストする予定であったそれ。
テーブルを挟んで向かい合う。俺が啜るカップ麺の匂いと、暁斗の前に置かれた、彩りだけは良い合成食品。暁斗はそれを怪訝そうに眺めた後、一口だけ口に運んだ。
俺は知っている。暁斗の身体には、飲食物をしっかり味わえる機能が備わっている。
最初は何の為なのか分からなかったが、今なら分かる。それは彼を「生かす」ためではなく、この技術を享受する「オーナー」たちが、機械の身体になっても食の楽しみを捨てたくないという欲望から搭載された贅沢な機能だ。
一般の飲食物の分解にはむしろエネルギーを消費する。彼の動力源はあくまで、あの黒髪に仕込まれた光発電ユニットと蓄電池だ。
「……味は、するんだな。皮肉なことに、美味いよ」
暁斗が自虐的に笑う。俺は喉が詰まるような思いで、味のしない麺を飲み込んだ。彼が「美味しい」と感じるその一瞬さえ、あの組織の身勝手な設計思想の上に成り立っている。
「お前、さっきから手が震えてるぞ。そんなんで俺の精密な頭をいじるつもりか」
暁斗の指摘に、俺は箸を置いた。確かに、指先が僅かに小刻みに震えている。
俺は深呼吸をし、彼という『人間』を救うために、今はただの技術者として振る舞うことを自分に強いた。
「……分かっている。食べ終わったら、すぐに始める」
食事が終わり、俺はリビングの床にメンテナンス機材を広げた。ここからは、空想でもシミュレーションでもない。このくそったれな世界の片隅で、俺たちが生き残るための、泥臭い『技術の継承』だ。
「日向、上着を脱げ。……まずは腕からだ」
俺の震える指先は、作業用のライトを点灯させた瞬間、技術者としての冷徹な正確さを取り戻した。
暁斗は素直に従い、俺は彼の剥き出しになった肩に触れた。
人工皮膚はほんのりと温かく、しっとりとしている。出資者が「人間らしさ」を望んだから搭載された、贅沢な機能。その下に流れていない血の代わりに、俺がメンテナンスという形で『命』を繋がなければならない。
「人工皮膚の接合部は剥がれやすい。損傷は視界に通知されるが、目視でも確認しろ。……関節にはこのグリスを補充する。適量を間違えると駆動装置に負荷がかかる」
俺の手先は、自分でも驚くほど正確に動いた。感情を切り離し、純粋な『作業』として彼の身体に向き合う。だが、指先が時折震えるのを止めることはできなかった。彼をこんな姿にしたのは、俺たちなのだという加害者意識が、常に背後で俺を睨みつけている。
「……お前、本当に腕がいいんだな」
暁斗の不器用な称賛に、俺は喉の奥を詰まらせた。
「……当たり前だ。俺が調整したパーツだ。……でも、背中のメンテナンスはお前一人じゃできない。そこだけは、俺が診る」
夜が更けるまで、俺は彼に機材の扱い方を叩き込んだ。資料を読み込むほどに、俺が死んだ後の暁斗の孤独を想像してしまい、恐怖が込み上げる。
「……俺が君の命を握っているなんて、思いたくないんだ」
暁斗は、新しくグリスを差された腕を動かし、「お前、本当に卑怯だよな。俺はもう、お前なしじゃ生きていけないじゃないか」と呟いた。
その言葉は、俺の胸に鋭く突き刺さった。
彼を自分に縛り付けている自覚はある。だが、それ以外に、彼をこの『くそったれな世界』で生かしておく方法を、俺は知らなかった。
俺は何も答えず、ただ黙々と、散乱したパーツを箱に収めていった。