目の前の光景が、まるで別の惑星の言語で語られているように感じられた。
 俺は、糸蔵(いとくら)の「要塞」と化したデスクの横に座らされ、数枚のモニターに滝のように流れる文字列を眺めている。糸蔵の指は、鍵盤を叩くピアニストのような軽やかさでキーボードを叩き、黒い画面に次々と窓を開いては、奇怪な図形やログを吐き出させていた。

 糸蔵が『趣味』のプログラミング、ハッキングを教えるというから、もっとこう、俺の理解の範疇内に収まるものだと思っていた。
 趣味? これが?
 今更ながらに本棚にあった数々の本のラインナップが思い出される。

「……いいか、ここが君のコア・カプセルの、第一階層の制御テーブルだ。組織のバックドアは、このパケットのヘッダーに偽装したフラグを紛れ込ませてくる。だから、この監視プロセスをフックして、戻り値を常に『正常』に書き換えるスクリプトを走らせる。……簡単だろ?」

 「簡単」なわけがあるか。
 こいつの口から出る「フック」だの「パケット」だの「プロトコル」だのといった単語は、俺の耳をすり抜けてどこか遠くへ飛んでいく。だが、画面上で起きていることの結果だけは分かった。こいつは、組織が「鉄壁」だと豪語していたセキュリティを、まるで近所のコンビニに入るような気軽さで通り抜けているのだ。

「……お前、さっきから何を言ってるのかさっぱり分からねえよ」
「……そうか? 基礎的なロジックの話なんだが。……まあいい。理屈は後でいいから、実際に自分のシステムを叩いてみてくれ」

 糸蔵に促されるまま、俺は自分の右腕から伸びたケーブルを、その要塞のようなコンピューターの端子に接続した。
 その瞬間、自分の意識の一部が、電子の海へと拡張されていく感覚に襲われた。視界の端に、糸蔵が書いた「呪文」のようなコードが浮かび上がる。

「いいか。そのコードを、君の第四CPUの空きレジスタに流し込んでみろ」

 言われるがまま、俺はその操作をイメージした。意味なんて分からない。ただ、糸蔵が指定した場所にデータの塊を置いただけだ。
 その直後、俺の脳内ユニット——コア・カプセルが、微かに熱を帯びるのを感じた。

(……なんだ、これ)

 意識の解像度が、一気に跳ね上がった。
 今まで、俺の意志とは無関係に四六時中信号を送り続けていた「何かの気配」が消え、代わりに圧倒的な処理能力が俺の自由に使えるようになったのを感じる。
 ふと思考を巡らせるだけで、部屋中の電化製品の動作周波数や、窓の外を走る車の速度、さらには糸蔵のコンピューター内で動いている数百万行のプログラムの構造までが、手に取るように分かってしまった。

(……俺の頭、こんなにヤバいスペックだったのかよ)

 組織は、単に脳を機械に置き換えただけじゃなかった。俺の頭部には、一国の軍事ネットワークすらハッキングできそうな、怪物じみた処理能力を持つスーパーコンピュータが詰め込まれていたのだ。
 使い道さえ分かれば、これは「チート」なんて生易しいものじゃない。世界の理を書き換えるための、文字通りの武器だ。

「……できたな。君のログは完全に隠蔽された。ついでに自己診断プログラムの権限も君の方に移しておいたから」

 自分の「中身」の異常さにドン引きしながら、俺は隣に座る糸蔵を見た。
 あいつは、俺の頭部にあるその強大な力を、当然のように「少し調整した」程度にしか思っていない。だが、モニターに反射したあいつの横顔を見て、俺は別の意味で息を呑んだ。

 糸蔵の顔色は、昨日よりもさらに酷かった。

 朝から飲まず食わずで、トイレにすら行かずに何時間も画面にかじりついている。寝不足で落ち窪んだ目の下には濃いクマができ、キーボードを叩く指先は、作業の正確さとは裏腹に、限界を超えた疲労で小刻みに震えていた。

「……おい、糸蔵。もうそのくらいにしろ。お前、死ぬぞ」

 俺が声をかけても、あいつは「あともう少し、パッチを当てれば……」と、うわ言のように繰り返すだけだ。

 俺の義躯(からだ)は、メンテナンスさえすれば理論上は永遠に動き続ける。疲労も空腹も、バッテリー残量という数値に置き換えられるだけの記号だ。
 だけど、目の前にいるこいつは違う。
 放っておけば、たった一晩の不摂生で壊れてしまう、あまりに脆弱で、救いようのない「生身の人間」なのだ。
 どれほど神のごとき技術を持っていようと、この男はただの、脆い生き物だ。

「……少し、休め」

 俺は、怪力ともいえる義躯(きかい)の腕で、強引に糸蔵の椅子を後ろへ引いた。
 糸蔵は一瞬、何が起きたか分からず呆然としていたが、ようやく糸が切れたように、ガクンと首を垂らした。

「……ああ。……少し、眠いかもな」

 それだけ言うと、あいつはデスクに突っ伏して、数秒で泥のような眠りに落ちた。
 俺は、静まり返った部屋の中で、微かに聞こえるあいつの心音と、自分の頭部で鳴り続けるファンの音を交互に聴いていた。
 俺という「最強のガラクタ」と、それを直した「最弱の天才」。

 この奇妙で、歪なバランスの上で、俺たちの逃避行は続いていく。
 俺は、あいつが寝言で漏らした「すまない」という言葉を無視して、自分のコア・ユニットに蓄積された膨大なデータを、静かに整理し始めた。

第十三話:俺が死んだら(空也視点)