深夜、俺は青白く光るモニターを前に、自身の思考が完全に行き止まり——「詰み」に達したことを悟った。
デスクの上には、元職場から命懸けで持ち出したコア・カプセルの極秘設計資料と、暁斗の現在の稼働ログが並んでいる。暁斗にメンテナンスを教え、ハッキングの初歩を叩き込み、彼が一人でも生きていける術を授けようとしてきたが、根本的な欠陥にぶち当たったのだ。
(……無理だ。これだけは、彼一人では完結できない)
暁斗の頭部に収められたコア・カプセルは、彼の意識の継続性を保つために複数のCPUとメモリが複雑に冗長化されている。これらを順次新しいものへ交換していくことで、彼は理論上、永遠に近い時間を生きることができる。だが、その交換作業は数ミリ単位の狂いも許されない精密な物理作業であり、かつシステム的な同期処理を同時に行わなければならない。
自分の後頭部にある、物理的な「自分そのもの」を、鏡越しに、あるいは手探りで、バックアップを取りながら少しずつ更新する……。そんな曲芸のような真似は、どれほど高性能な義躯を持っていたとしても、本人の手で完結できるはずがなかった。俺がいくら技術を教え込もうと、この物理的限界という壁は、暁斗一人では決して乗り越えられないのだ。
「……俺が、死んだら」
口から漏れた呟きが、静かな部屋に空虚に響いた。
俺は生身の人間だ。今はまだ若いつもりだが、いずれ老い、病に冒される。あるいは、不慮の事故で明日死ぬかもしれない。もし俺が死ねば、暁斗の「自分」を更新する作業は永遠に停止する。彼はそのまま数十年を過ごし、やがて部品の寿命とともに、意識を保てないほどの機能不全に陥るだろう。
(それだけじゃない。もし俺が——認知症になったら?)
恐怖が背筋を駆け抜ける。俺の脳が衰え、メンテナンスの手順を忘れ、暁斗のコア・カプセルを誤って破壊してしまったら。あるいは、俺が誰かも分からなくなった俺を、暁斗は永遠に介護し続けることになるのか。
俺が彼をこの場所へ連れ出したのは、彼を「人間」として救うためだったはずだ。なのに、俺が用意した未来は、結局のところ、俺という不確かな存在に依存し続け、最後には孤独な機能停止を待つだけの、長い長い拷問でしかないのではないか。
「……っ、は、……ぁ」
過呼吸気味に吐き出される息が、熱を帯びる。
昨夜から満足に食事も睡眠も取っていない身体は、限界を告げるように悲鳴を上げていた。だが、思考は止まらない。
俺の趣味であり、唯一の友達だった機械の知識が、今は暁斗を縛り付ける鎖の設計図にしか見えなかった。
暁斗は今、ソファで静かにスリープモードに入っている。あいつの髪に仕込まれた光発電ユニットが、月の光を僅かに吸い込んで黒く沈んでいる。
あんなに鮮明で、豊かな感情を持った人間を。
俺の身勝手な罪悪感で、更に醜い地獄に陥れた。
(俺は、とんでもないことをした。救ったんじゃない。ただ、殺したくなかっただけで……)
視界が歪む。
モニター上の文字列が、俺を嘲笑うように蠢いている。
技術者として彼を完璧に「直そう」とすればするほど、生身の人間である俺の存在が最大の障害になるという矛盾。
俺が死ねば、彼は詰む。
俺が生きていても、いつか俺が壊れれば、彼は詰む。
どう足掻いても、ハッピーエンドなんて存在しないチェックメイト。
俺はガタガタと震える手で、自分の顔を覆った。
隣の部屋から聞こえる暁斗の規則正しいファンの音が、今は冷酷なカウントダウンのように聞こえていた。俺に残された時間は、あまりに短すぎる。
混濁する意識の中で、俺の指が勝手にキーボードを叩き始めた。
もはや思考ではない。ただの反射だ。エンジニアとしての生存本能が、この「詰み」の状態を回避するための唯一の解を、無意識のうちに手繰り寄せようとしている。
——生身の脳が限界なら、更新すればいい。
——メンテナンスが必要なら、俺自身がメンテナンスされればいい。
「……あ、あ……」
視界の隅で、新しいソースコードの窓が開く。
そこには、暁斗のコア・カプセルとの『同期パッチ』の草案が書き連ねられていた。
だが、その中身は暁斗のためのものではない。人間から機械へ、意識を転送する際の「転送プロトコル」の極めて個人的な定数値——俺自身の脳波データに基づいたパラメータが、迷いなく入力されていく。
それが何を意味するのか、今の俺にはもう判別できなかった。
ただ、この『エラー』を修正しなければならない。暁斗の隣に立ち続け、彼を修理し続けるための、完璧な『予備パーツ』が必要だ。
朦朧とした頭で、俺はひたすらコードを打ち続けた。
「Subject:Kuya」と題されたそのファイルが、自らを永遠の牢獄へと叩き込むための片道切符であることに、気付かないまま。
夜明けの光が部屋に差し込む頃、俺はデスクに突っ伏して眠りに落ちた。
モニターの画面では、俺の「願望」が形になった悪魔のような手順書が、静かにその完成を待っていた。