システムが再起動し、視界に光が戻る。
スリープモードから抜けた俺が最初に行うのは、周囲の状況確認だ。アパートの一室、遮光カーテンの隙間から差し込む薄暗い朝の光。そして、耳元で鳴り続ける冷却ファンの音。
そこまではいつも通りだった。だが、デスクの方を向いた瞬間、俺のセンサーが異常な数値を叩き出した。
「……おい、糸蔵」
声をかけたが、返事はない。あいつはデスクに突っ伏したまま、死んだように眠っていた。
俺はソファから立ち上がり、音を立てずに近づく。あいつの顔色は、昨日見た時よりもさらに酷い。土気色を通り越して、もはや生気を感じられないほどだった。
ふと、点きっぱなしのモニターに目が止まった。
そこには、以前も俺が「ドン引き」したような、あの怪物じみたコードの羅列が並んでいる。
意味は分からない。だが、俺の高度な処理能力を持つコア・カプセルが、そのデータの一部を自動的に解析し、不穏な文字列を強調表示した。
『Subject:Kuya』
『Sync Patch Draft』
「クヤ……? 空也、糸蔵のことか?」
あいつが自分自身の名前を冠したファイルを、何時間もかけて書き上げていた。昨夜、あいつがうなされながら打ち込んでいたのはこれか。
嫌な予感が、ノイズとなって回路を走る。あいつは自分に「もしも」があった時のために、俺にメンテナンスを教えていたはずだ。なのに、なぜ自分を対象にしたパッチなんて書いているんだ。
その時、糸蔵がびくりと肩を震わせて顔を上げた。
「……っ、あ……」
「おはよう、天才修理屋。……随分と熱心に仕事してたみたいだな」
俺が皮肉を混ぜて声をかけると、糸蔵は慌ててモニターの電源を落とした。その動作は、普段の冷静な彼からは考えられないほど慌ただしく、不自然だった。
「……起きたのか、日向。……腹は、減っていないか。分解ユニットの清掃は……」
「そんなのはどうでもいい。お前、さっきの画面、何だ」
俺の問いに、糸蔵の視線が露骨に泳いだ。
あいつは椅子から立ち上がろうとして、足をもつれさせ、デスクの端を強く掴んだ。その指先が、限界を超えた疲労で小刻みに震えている。
「……何でもない。ただの、予備のシミュレーションだ」
嘘だ。あいつは「機械は嘘をつかない」なんて言っていたが、人間としてのあいつは、今、目も合わせられないほど下手な嘘をついている。
朝食の代わりの合成食品を準備している間も、あいつの様子は明らかにおかしかった。
昨日までは、技術的な質問をすれば、どんなに複雑な内容でも淀みなく答えてくれた。なのに、今のあいつは俺が「コーヒーの粉、どこだ?」と聞いても、「……ああ、パッチの整合性が……」と、全く噛み合わない返事を漏らす。
メンテナンスの手順やハッキングの技術的な質問をすれば、反射的に淀みない答えが返ってくる。だが、それ以外の日常的な言葉が、あいつの脳を素通りしているようだった。
「おい、糸蔵。座れ。……話をしろ」
俺は強引に、あいつの手から食器を奪い、向かい合わせに座らせた。
糸蔵は視線を床に落としたまま、固く口を閉ざしている。その表情には、恐らく組織で「材料:人間」というログを見つけた時以上の、救いのない絶望が張り付いていた。
「何隠してんだよ。俺にメンテナンスを教えたのは、お前がいなくなった後も俺が生きていくためだろ? なのに、何であんな自分を対象にするようなコード書いてんだよ。お前、何かに追い詰められてるだろ」
畳みかける俺の言葉に、糸蔵は一瞬だけ顔を上げた。
その瞳に浮かんだのは、自責と、恐怖と、そして狂気にも似た執着だった。
「……何でもないと言っただろ。君には……」
あいつは言葉を切り、喉の奥で何かを飲み込んだ。「関係ない」と言おうとして、言えなかったのだ。
関係ないわけがあるか。
俺を勝手に連れ出して、俺の「死ぬ自由」を奪って、永遠に近い時間を生きるガラクタにしたのはお前だろ。そのお前が壊れかけているのを、黙って見ていられるほど、俺の情緒は死んでねえんだよ。
「関係あるんだよ! お前が死んだら、俺は本当のガラクタになるんだって、お前自身が言ったんだろ!」
俺が激昂しても、糸蔵は肩を震わせただけで、それ以上何も言わなかった。
ただ、「何でもない」という拒絶を壁のように張り巡らせて、自分の内側の闇に逃げ込んでいく。
俺の超高性能な視覚ユニットは、あいつの心拍が異常に跳ね上がり、呼吸が浅くなっているのを克明に捉えていた。
あいつは、何かを見てしまったんだ。
俺を「直す」ことの限界か、あるいは、もっと別の「詰み」の答えか。
問い詰めても、あいつはもう答えない。
俺は、目の前でボロボロになっていく「修理屋」をどうすることもできず、ただやり場のない不安にシステムを軋ませることしかできなかった。