思考の歯車が、最後の一回転を終えて動かなくなった。
 視界の端が不規則に白く霞み、耳の奥では、低く不快な耳鳴りが絶え間なく鳴り続けている。三日ほどまともに眠っていない身体は、椅子に座っていることさえ奇跡に近い状態だった。モニターの光が網膜を刺し、頭は焼けるような痛みを訴えているが、俺の意識は、皮肉なほど冷徹に最後の『解』を導き出していた。

「……日向(ひゅうが)、こっちへ来い。……これが、最後だ」

 俺は掠れた声で、向かいのソファで警戒を露わにしている暁斗(あきと)を呼んだ。
 昨晩、俺が朦朧とした意識の中で書き上げた『Subject:Kuya』——。それは、俺という人間に残された、唯一にして最悪の脱出口だった。

「おい、糸蔵(いとくら)……。お前、本当にそれを俺に見せるつもりか?」

 暁斗の声には、怒りと共に、底知れない恐怖が混じっていた。あいつの超高性能な演算能力は、俺がこれから何をしようとしているのか、その断片を既に解析し始めているのだろう。

「……いいから、見ろ。……これが、俺たちの『詰み』を回避する、恐らく唯一の手順だ」

 俺は震える指でモニターを点灯させた。
 画面には、組織のデータベースから盗み出した、脳を機械化するための禁忌の工程表——『悪夢の手順』が映し出されている。そしてその隣には、本来なら組織の深層部にしか存在しないはずの『脳の機械化』に関する極秘資料。そして、それを俺自身の脳波データに最適化させた同期パッチ。更には、俺が独自に開発した、二人のコア・カプセルを同期させ、双方向のメンテナンスを可能にするためのパッチコードが並んでいた。

 俺が死ねば、暁斗を直せる人間はこの世界からいなくなる。暁斗自身が自分の後頭部を解体し、コア・カプセルを更新することなど物理的に不可能だ。もし俺が老い、病に倒れれば、彼は永遠に近い時間を、朽ち果てていくガラクタとして独り過ごすことになる。そんな未来を押し付けることは、俺にとって死よりも重い加害だった。

「……お前、狂ってるのか」

 暁斗が立ち上がり、俺の胸ぐらを強引に掴んだ。義躯(ボディ)の怪力が、俺の脆弱な肋骨を軋ませ、呼吸を奪う。だが、痛みすらも今の俺には遠かった。

「狂っているのは、この世界だ。……俺は生身だ。いつか老い、病み、死ぬ。……そうなれば、君を直せる人間はこの世からいなくなる。……君を永遠の孤独に閉じ込める。……そんな『加害』を、俺にこれ以上続けろと言うのか」

 俺の言葉は、表層では彼を救うための「理屈」として形作られていた。だが、その深層には、自分でも気づかないほどのどろどろとした執着が渦巻いている。

 ——君と一緒にいたい。
 ——君を失いたくない。
 ——一人で死ぬのが怖い。

 そんな救いのない本心が、理性の仮面を被って彼に襲いかかっているのだ。

「だから、選ばせてやる。……いや、選んでくれ、日向」

 俺は、机の上の、空のシート群を指差した。そこには、先程飲み下したばかりの、強力な即効性睡眠薬の残骸が散らばっていた。

「……っ、お前、何を飲んだ……!」
「数分後、俺の意識は落ちる。……起きた時、俺がどうなっているかは、君が決めていい。……このまま死なせて、君もどこかへ消えるか。……あるいは、その手順に従って、俺を君と『同じ』にするか。……好きにしろ」

 暁斗の瞳——レンズが、激しく絞りを開閉させた。その狼狽、怒り、そして悲鳴のような沈黙を、俺は半分閉じた瞳で見つめていた。頭がぐらりと揺れ、視覚が急速に狭まっていく。

「……身勝手だって、言っただろ……! お前、どこまで俺の意見を無視すれば気が済むんだ!!」

 暁斗の怒鳴り声が、遠のいていく意識のなかで反響した。
 ああ、本当に身勝手だ。
 自分を『加害者』だと責め続けながら、最後にはその全責任を、唯一の『被害者』である彼に丸投げして、俺は眠りにつこうとしている。

 これが俺にできる、最初で最後の「自己犠牲」のつもりだった。だが本当は、自分を「選ばせる」ことで、彼を自分から永遠に逃げられなくするための、呪いのような罠だったのかもしれない。彼の手を、俺という『材料』で汚させるという、最悪の共犯。

「……頼む。……暁斗……」

 最後に漏れたのは、祈りのような、あるいは醜い縋り付きのような呟きだった。
 視界が完全に暗転する直前、俺の目に焼き付いたのは、モニターの冷たい光に照らされた暁斗の、今にも泣き出しそうな、あまりに「人間」らしい表情だった。

 意識が底のない闇へと沈んでいく。
 次に目を開けたとき、俺が人間として死んでいるのか、それとも『ガラクタ』として生まれ変わっているのか。
 そのすべてを彼に預け、俺は深い、泥のような眠りの中へと逃げ込んだ。

第十六話:選ばされた地獄(暁斗視点)