「……おい、糸蔵(いとくら)! ふざけんな、起きろよ!!」

 俺の声は、狭いアパートの壁に跳ね返り、空虚に消えた。
 デスクに突っ伏した糸蔵の身体は驚くほど軽く、揺さぶっても、怒鳴りつけても、あいつはピクリとも動かない。即効性の睡眠薬。あいつは最初から、俺に反論の隙も、拒絶の言葉を叩きつける時間も与えるつもりなんてなかったんだ。

「……死ねってのかよ。それとも、お前を俺と同じバケモノにしろってのか」

 怒りで回路が焼き切れそうだった。
 勝手に攫われ、勝手に改造され、勝手に助けられ、今度は勝手に生死の決断を押し付けられた。どこまで行っても、俺の意思なんて置き去りだ。この男は「君に選ばせてやる」なんて殊勝なことを言いながら、その実、俺の首を真綿で絞めるような真似をしている。

 目の前のモニターには、あいつが最後に開いたファイルたちが、冷たい光を放ちながら鎮座している。

 それは、人間を解体し、脳をコアカプセルに収め、機械の身体に接続する——俺自身が辿った、あの地獄の設計図だった。
 俺は、自分を地獄から連れ出してくれた男を、自らの手で地獄へ突き落とさなきゃならないのか。それとも、このままあいつが冷たくなっていくのを、何もできずに見守っていればいいのか。

「……何なんだよ、お前は……っ」

 俺の超高性能な演算ユニットは、目の前の絶望的な二択を、秒間数億回のスピードでシミュレートし続ける。だが、どれほど計算を重ねても、導き出される『正解』は見つからない。

 あいつがこの数日、何に怯え、何に追い詰められていたのか、今の俺には正確なところは分からない。ただ、この部屋に積み上げられた『処分』名目の予備パーツの山や、あいつが必死に俺に叩き込んできたメンテナンス技術の数々が、無言のままに答えを突きつけてくる。

 あいつは、自分がいなくなった後の俺を恐れていた。自分が人間として老い、死に、俺を直せる者がいなくなる未来を、死ぬほど恐れていたのだ。
 ……馬鹿じゃねえのか。
 そんなことのために、自分の命まで天秤に乗せるなんて。

「……選択肢なんか、最初からねえじゃねえか……!」

 俺は震える義躯(きかい)の拳を、デスクに叩きつけた。
 俺は「された」側だ。人間を「する」側になんて、なりたくなかった。ましてや、救われた相手の命を奪うことなんて、できるはずがない。

 組織で俺が怒り狂い、暴れていた時、誰もが俺を「バグ」として処理しようとする中で、この男だけは俺の言葉を、俺という「人間」を、静かに受け止めてくれた。あいつがいなければ、俺はとっくに溶解炉の中でただの鉄屑になっていたはずだ。

 あいつを失えば、俺は本当のガラクタになる。物理的な故障じゃなく、俺を「人間」として繋ぎ止めてくれる唯一の(アンカー)を失うからだ。

「お前が勝手に決めたんだ。……後悔したって、一生逃がしてやらねえからな」

 俺はモニターに向き直った。
 一から義躯(からだ)を作る時間は足りない。だが、ここにはあいつが俺のために心血を注いで作り上げた予備の義躯(ボディ)パーツが揃っている。あいつの手癖が染み付いた、あいつの最高傑作だ。
 俺は『Subject:Kuya』の実行キーを叩いた。

 視界の端で警告(アラート)が点滅し、俺の頭部にある冷却ファンが、かつてないほどの高負荷音を立てて回り始めた。
 デスクに突っ伏した糸蔵の呼吸は、睡眠薬の影響でひどく浅い。俺のセンサーは、あいつの指先が少しずつ冷たくなっていくのを無慈悲なまでに正確な数値で捉えていた。

「……っ、やるしかないんだな、本当に」

 俺は、震える義躯(きかい)の手を伸ばし、糸蔵の身体に触れた。
 人工皮膚ではない、本物の、あまりに脆い人間の肌。力を込めればそれだけで壊れてしまいそうなその感触が、これから俺が犯そうとしている行為の重さを、鉛のように俺の回路に叩きつけてくる。

 俺は、モニターに表示された『悪夢の手順』を、怪物じみた処理能力を持つコア・カプセルに直接流し込んだ。
 意味を理解する暇なんてない。ただ、機械的な手順として、糸蔵の意識を——その「魂」を、壊れゆく肉体から切り離し、新規のコア・カプセルという冷たい金属の殻へと移し替えなければならない。

 俺は、床に積まれた予備パーツの箱を次々と開けた。
 そこにあるのは、糸蔵が俺のために、夜も眠らずに心血を注いで作り上げた「日向(ひゅうが)暁斗(あきと)」専用のパーツばかりだ。

 ふと横たわる糸蔵の身体を見て、俺は皮肉な事実に気づき、奥歯を噛みしめた。
 人間だった頃の糸蔵は、俺より頭一つ分ほど背が高かった。
 だが、今ここにあるのは、すべて「俺」の規格に合わせて設計されたフレームと外装だけだ。

「……悪いな、糸蔵。これしかねえんだ」

 俺は、あいつの長い手足を切り捨て、俺と同じサイズの、俺と同じ規格の身体へとあいつを組み替えていく。
 身長が同じになる。
 視線の高さが、同じになる。
 それは、技術者と被験者という、あいつが頑なに守り続けてきた境界線を、俺の手で完全に破壊することを意味しているように思えた。

 あいつは、俺を直せる唯一の人間であり続けるために、自分を犠牲にしようとした。
 なら、俺はあいつを、俺と同じ「ガラクタ」に引き摺り下ろすことで、その孤独な独善を叩き潰してやる。

 作業が進むにつれ、俺の意識は熱を持ち、視界はノイズで白んでいく。
 神経回路を接続し、駆動装置(アクチュエーター)を固定し、各部へのエネルギー供給系を繋いでいく。
 あいつが俺に教えたメンテナンスの技術が、今、あいつ自身を造り変えるための残酷な凶器となっていた。

「……勝手に死ぬなんて、絶対に許さねえぞ」

 俺の指先は、いつの間にか震えが止まっていた。
 加害者と被害者。
 俺たちはもう、どちらがどちらかなんて言えない場所まで来てしまった。
 同じ高さの視線で、同じ冷たい血の流れない身体で、このくそったれな世界の片隅を這いずり回ってやる。
 最後に、新しい頭部の端子を俺のメインCPUと同期させ、転送完了のログを確認した。

 『Transfer Complete:Subject Kuya』

 静まり返った部屋の中で、俺は自分の右腕で、糸蔵——いや、かつて糸蔵だった、俺と同じ姿をした機械の身体を強く抱き寄せた。
 その人工皮膚は、まだ熱を持たない。俺は自分の重いファンの音を響かせながら、再起動の瞬間をじっと待った。

第十七話:漏れ出す本音(空也視点)