……暗い。けれど、あたたかい。
 湿った土の匂いがして、頬を撫でるような水の感触があった。
 ずっと深くに沈んでいた俺の意識が、その水に押し上げられるみたいに、ゆっくり浮かび上がっていく。

 重たいまぶたをこじ開けると、眩しい光が差し込んできた。
 まぶた……? そんな器官、もう俺にはなかったはずなのに。

 次に感じたのは、耳に届く風の音、木々のざわめき。
 さらに、肌をなぞる柔らかな布の感触と、肺の奥まで届く春の匂い。
 全部が異常に鮮やかで……混乱した。
 土と根を通して届く水脈の気配や、空気中の魔力の香り——植物としての感覚も、まだこんなに残っている。なのに、これは何事だ?

 わけがわからないまま、自分の体を見下ろして、さらに混乱した。
 見下ろせる。視界がはっきりしている。人間だった頃のように。
 その視界に飛び込んできたのは、俺のものではありえない、端正な造りの体。
 いや、確かに人間のように見える。けれども肩や腕、首のあたりからは、細い蔓や淡い緑の葉が芽吹いている。
 そして、植物としての感覚が、弱々しく芽吹くその植物こそが「俺」なのだと訴えかけてきていた。

 なんだこれは。俺は。死んで、なかったのか?
 思い出すのは死を覚悟した日、そう、ディラオーネが……ディラオーネ。
 ……つまり、この人間のように見える体は、ディラオーネお得意の土人形なのか?
 で、俺は、ここに植え替えられたということか。

「……気が付いた?」
 視線を横に動かすと、すぐ傍にディラオーネ本人が座っていた。
 長い指が俺の頬をそっとなぞる。触れられた場所が、じんわりと熱を帯びる。
「もう大丈夫。ここは安全だから」

 動かそうとした指先は、かすかに震えるだけだった。
 それでも、この距離であの声が聞ける、生きている——それだけで、胸の奥が熱を帯びた。
 そう、生きて、ディラオーネの元に戻れた。あまりに変わり果てた状態だけれど、俺は……

 それからしばらくは、瞬きをする以外はほとんど動けなかった。むしろ瞬きできているのが奇跡的とも言えた。
 何をするにもこんがらがって、体を動かす命令が、うまく届かない。
 土人形の「機械的な動き」と、植物としての「ゆるやかな成長」が同時に存在していて、その制御がぐちゃぐちゃに絡まっている。

 目を閉じれば、森の中にいたときのように水脈や根の感触が広がる。
 でも目を開けると、工房の天井や木枠の窓が見える。
 耳にもきちんと届くのに、癖で振動からも音を拾おうとしてしまう。
 ……全てが二重に届く感覚は、正直、酔いそうに気持ちが悪かった。
 一つ一つ、慣らしていくしかない。かつて、植物としての感覚に慣らしたように、今度は更に増えた感覚を、馴染ませる。

 ディラオーネは毎日傍にいて、魔力を少しずつ送り込み、根や蔓の位置、芽吹きの角度を調整してくれた。
 それでも、寝たきりの状態が続く。あの闘いでのダメージが、それだけ深刻だった——勿論、それも原因の一つだったのだろう。
 
 けれど、何より俺はまだ——この「人間のような形」を自分のものとして受け入れられていなかった。
 ディラオーネの作る土人形は、戦闘用ならかなり大雑把な造形をしている。なのに俺の宿る人形の肢体は、すごく繊細で……美しくて。この作りものめいた美しさが、本当に作りものだと知っているだけに、心に棘のように引っかかっていたんだ。

 そんなある日、ふと思い出したと言わんばかりに、ディラオーネが鏡を持ってきた。
「ルークスの笑顔が見たかったから、それを思い出しながら……」
 そう言って見せられた土人形の顔には、確かに人間だった頃の俺の面影があった。
 だがな、ディラオーネ。これは、思い出補正が入り過ぎだ。
 心の棘がスッと消えて、やっと俺はこれが俺の為の器だと、受け入れられた。

第十章 取り戻せたもの、変わったもの