異界の冷たい空気を切り裂き、智樹は雪原を蹴った。
かつての彼なら、数十メートルも走れば肺が焼け付くような痛みに悲鳴を上げ、走れなくなっていただろう。しかし今、智樹の血管にはユキが生成した高濃度の酸素が絶え間なく送り込まれている。心音は速まっても、呼吸が乱れることはない。
さらにユキの根が脚部の筋肉を補佐し、倒木や深い雪をものともしない跳躍を可能にしていた。その姿はもはや人間というより、森を駆ける一頭の獣に近い。
(……っ、来るな……来るなよ……!)
智樹の必死の思念に応えるように、左腕の蔦が風を切り、周囲の枝を掴んで加速を助ける。しかし、背後から迫る足音は一向に遠のかない。
篤司は、舌打ちを噛み殺しながら森を疾走していた。
並の冒険者ならとっくに見失っている速度だ。だが、彼は経験に裏打ちされた最短距離の選定と、肩口で唸りを上げるドローンの追尾性能を駆使し、じりじりと「緑の影」との距離を詰めていく。
(速すぎる。それに、あの動き……)
篤司の鋭い眼光が、逃げる少年の背中を捉える。
これだけ走って、篤司ですら息が上がりつつあるのに、全く速度が緩まない。それだけ見れば、人間というよりも魔物に近い。しかし、屍蔓に寄生された死体なら、もっと不自然に手足を振り回し、本能のままに襲いかかってくるはずだ。だが目の前の存在は明確な意志を持って「逃走」を選んでいる。
そして、何よりも、その頭上を舞うボロボロのドローンが、彼がまだ「登録された人間」であることを無機質に証明し続けていた。
行き止まりは、唐突に訪れた。
連日の雪で脆くなっていた崖際。智樹が足を踏み出した瞬間、雪が崩れ、バランスを崩した彼は岩肌に背を預ける形で滑り落ちた。
「——そこまでだ」
後を追って危なげなく飛び降りた篤司が着地し、距離を保ってナイフを構える。
智樹は後ずさろうとしたが、背後は岩で逃げ場がない。仕方なく、目の前の「文明の象徴」のような男を見上げた。最新の装備、自分とは対照的に手入れの行き届いたドローン。一ヶ月以上、静かな自然の中でユキとだけ過ごしてきた智樹にとって、久しぶりに見る人間の篤司から放たれる圧倒的な威圧感は恐怖そのものだった。
「……ぁ、……っ、……ぁあ……」
声を出そうとしても、喉が引き攣れて音にならない。智樹の心に渦巻く強烈な拒絶と恐怖が、神経を通じてユキに伝播する。
「……ユキ……」
その縋るような悲鳴に応じ、ユキがパニックを起こした。
智樹を守らなければならない。傷つけさせない。
斑入りの蔦が智樹の身体を覆うように猛烈な勢いで増殖し、彼を岩肌に縫い付けるほど強く抱きしめた。それは防御の構えであったが、智樹同様パニックに陥ったユキの力はあまりに強く、智樹の肋骨を軋ませる。
「待て!」
咄嗟に制止の声を上げた篤司には見えていた。屍蔓の蔦の震え。怯えて親にしがみつく幼子のような、不自然な挙動。智樹の顔色。あれだけ締め上げられているのに、酸欠の兆候が見られない。
一方で、あまり時間がなさそうなのも事実だった。智樹の肋骨は、今にも折られてしまいそうだ。
一歩踏み出そうとして、止めた。屍蔓が、更に震えたからだ。
篤司は賭けに出ることにした。ナイフを地面に落とし、両手を上げて無手だと示す。
蔦の中から篤司を見据えていた智樹の視線が揺れ、どうやらこのまま押し切れそうだと判断した。押し切るというか、押して怖がらせるなら引いてやれ、の気持ちなのだが。
「離してやれ、大事なやつが苦しんでるぞ」
トーンの抑えられた言葉が、智樹の耳朶を打った。智樹を通じて、ユキも聞いた。
大事なやつ、とまで篤司が言ったのは半ば直感的なものだったが、果たしてそれは劇的な効果を生んだ。
落ち着いた声は智樹の冷静さを取り戻させるには十分で、大事なやつ、と言われてユキが智樹の苦しさに気付くのにも十分で、相手にこれ以上攻撃の意思もなさそうだというのが決め手となった。
ギリギリと智樹を締め付けていた蔦が、ふっと力を抜いた。完全に宿主を離すことはせず、けれど雪のように白く淡い光を——癒しの魔力をふわふわと浮かべ、治療をしようとしている。
篤司は一瞬目を見開いた。屍蔓が、癒しの魔法を使うだって?
けれど今優先するべきはこの少年の事情を確認することだ。
「落ち着いたか?」
同じ目線に近付けるために、腰を下ろす。なるべく、威圧しないように。
まだ半ば以上蔦に埋もれている形ではあったが、智樹が恐る恐る頷くことで、言葉が通じていることを再確認する。
「お前の話を聞かせてほしい。……何かあったんだろ」
その言葉の意味を理解した智樹の目から、大粒の涙が溢れ出した。
本当は、言いたいことも、伝えたいことも、山のようにあった。でも、喉元で全て詰まってしまうのだ。すぐに言葉が出せないのは、もう思い知った。
それでも、感情が溢れて、溢れて、涙としてこぼれ落ちていく。そしてその感情の奔流は、ユキにも流れ込んでいく。
ユキは、これと似た状況が以前にもあったことを思い出した。庵でも、智樹は負の感情を爆発させていた。そしてその時ユキは——
(だいじょうぶ。ともき、だいじょうぶ。ユキ、ここにいる)
篤司は、その光景を目の当たりにして息を呑んだ。
屍蔓が、宿主を撫でている。
攻撃するでもなく、喰らうでもなく、ただ泣きじゃくる人間を慰めるように、慈しむように。
「……これが、俺たちの知っている『屍蔓』だっていうのか?」
篤司の身体から、緊張が抜けた。
彼は通信機を叩き、背後の本隊へと繋ぐ。
「こちら高峰。……対象を確保した。いや、……『保護』したと言い換えるべきかもしれない」
雪原に響く智樹の嗚咽と、彼を優しく包み込む屍蔓。
やがて途切れ途切れに自らの境遇を訴え始めた少年の頭上を、ボロボロのドローンが旋回していた。それはあちこちひび割れ、汚れきっていたが、それでも懸命に智樹を記録し続けていた可能性が高かった。
一通り話を聞き終えた篤司は、そのドローンを手で示す。
「それを見せてもらっても良いか? 見ての通り、俺は協会職員だから、録画を確認するための外部ツールも持ってる」
篤司は自分のドローンに協会職員証を表示させて見せつつ、腰のポーチから、協会職員専用の携帯型情報端末を取り出した。ドローンに残されたデータを強制的に同期させるためのツールだ。
通信機能は案内役の冒険者たちのジャミングによって断たれていたというが、機体内部のメモリに蓄積された「物理的な録画記録」までは消えていないはずだ。
智樹の了承を得て、端末の画面に、事件当日の映像が映し出される。
薬草を見つけ、純粋な喜びを浮かべる智樹の横顔。
そこへ現れる、見覚えのある冒険者たちの卑劣な嘲笑。
背後から深々と刺され、雪の上に倒れ伏す少年の姿が、克明に、残酷に記録されていた。
「——クソ野郎どもが」
篤司の低い怒りの声と同時に、通信機が震えた。
本隊に残っていた篤司のパーティメンバーからだ。
『こちら本隊! 篤司! 聞こえるか!? 例の案内人連中だが、お前の配信見て、あまりに不審な挙動するから問い詰めたら、自分からボロを出しやがった!』
そういえば、と思い出す。篤司のドローンは、デフォルトで配信を行う設定にしていた。案内役の冒険者たちもパーティメンバーも、この配信を見ていたのだろう。
追い詰められた案内役の冒険者たちが逆上し、犯行を認めるような罵声を浴びせた瞬間、彼らは本隊のメンバーによって速やかに捕縛されたのだ。
『「新人は魔物に殺された」……だと? 笑わせるな。あいつら、全員しょっ引きだ。協会からは既に、こいつらの資格剥奪と刑事罰の正式通達が出たぞ』
「ああ、分かっている。……こっちも、生きた証拠がここにいる」
篤司は通信を切り、ゆっくりと智樹へ向き直った。
ユキの蔦が、まだ智樹の頬を不器用に撫でている。その白い光が、雪の中に温かな影を落としていた。
「智樹。……お前の無実は、たった今証明された」
その言葉を聞いた瞬間、智樹の肩からようやく力が抜けた。
ユキもまた、宿主の心から恐怖が消えたのを感じ取ったのだろう。智樹を縛っていた蔦が、まるで抱擁するように柔らかく解け、智樹の身体を雪の上にそっと下ろした。
「さあ、帰る準備をしよう。……学者の連中には、少しばかり驚いてもらうことになるがな」
篤司は少年に向かって、不器用ながらも優しい笑みを浮かべた。