白いマスクの裏で、咳が裂けた。
 胸の奥に棘のような疼きが走り、次の瞬間、喉の管を裏返すような痙攣がわたしを二つ折りにする。
 視界の端で、花弁が一枚、静かに宙を漂った。濡れた赤紫。光の粒がまとわりつき、ひらりと床へ落ちる。

 隔離病棟の空気が止まった。
 患者さんの枕元にいたわたしは、その同じ側に踏み越えていた。
 誰かが叫ぶ。
「榊先生!」
 同僚の腕が肩を支え、防護カーテンが揺れ、静脈路のワゴンが近づく。世界の縁が白くかすみ、耳の奥で機械音が伸びていく。
 呼吸を整えようとしたが、第二波が容赦なくせり上がった。花と血のむせるような甘い匂いが鼻腔を満たし、わたしは規定通りに、患者さんから腕を離し、壁側に身を翻す。けれど足は踏ん張れなかった。
 視界が暗い水に沈む。落ちていく最中、床に散った花の中心に、きらりと細い粒が瞬くのを見た気がした。

 目が覚めたとき、点滴の吊り下げ器具が頭上でかすかに揺れるのが見えた。
 モニターの規則的な音が薄いカーテン越しに続いている。
 咽喉が焼けるように痛い。口の端に貼られたテープが、わずかに突っ張った。

 わたしは患者のベッドにいた。
 それが、まず、事実だった。

 動かそうとした腕は針の固定具に阻まれ、胸のあたりで止まる。
 白い世界に、甘い匂いがしみ込んでいた。さっき吐いた花と似た匂い。いや、病室ごとゆっくりと花瓶になって、底に溜まった香りに溺れるような——そんな、逃げ場のない甘さだった。

 カーテンの向こうで、誰かが低く話す。「……強制入院の手続きは——」「検体は直ちに——」。
 わたしの名前が囁かれ、そこで会話は途切れた。足音が静かに遠ざかる。

 喉がひゅう、と鳴る。息を深く吸おうとすればするほど、胸の奥のどこかが、花の形に引きつる。
 ゆっくりだ。患者さんにいつも言ってきた通りに。吸って、止めて、吐く。
 そうして目を閉じたとき、暗闇の底で、聞き慣れない響きがわたしの耳に触れた。

 ——吐くのは、間違い。

 誰の声でもなかった。
 けれど、言葉だった。
 音程を持たない囁きが、葉脈の上を走る水音みたいに、胸の内側を流れていく。

 ——吐くのは、間違い。
 ——選ぶのは、おまえ。

 その声は、わたしの体のどこにでもいた。
 肺胞の端にも、胃の襞の影にも、血管の曲がり角にも、柔らかな植物の気配がいた。
 怖いと思うより先に、ああ、と納得しかけた自分に気づく。
 患者さんたちが口にしかけては言葉にできなかったもの。夢の中のざわめきとしてしか掬えなかったもの。それが今、わたしの体の内側から喋っている。

 何がどう間違いで、わたしは何を選ばなければいけないのか。
 その言葉を吟味するには、まだ体が熱過ぎた。まぶたがもう一度閉じて、暗闇の下へ。

 どれくらい眠っていたのか分からない。
 目を開ける度、点滴の量が減っては増え、管の位置が変わり、機械の表示が違う。カーテンの隙間から覗く光の角度的に、朝と昼と夕方が二巡、三巡したことは確かだ。

 同僚が短く声をかける。
「榊先生。水分、少しだけ含みましょう」
 彼はプロフェッショナルな距離を保とうとしていたが、目には苦味が混じっていた。
 わたしは首肯いた。頬の筋肉を動かすだけでも、胸の奥のざわめきが色を変える。わたしの動きに合わせて、何かが増減している。
 ——吐くのは、間違い。
 夢の声は、目覚めてもなお沈殿していた。幻覚だと言い切るには、臓器の奥のざわめきがあまりに具体的だった。

「……携帯を、持ってきてくれる?」
 そう言えたのは、何度目かの覚醒のときだった。
「外に置いたままで。ロッカーに——」
「わかった。消毒してから渡すよ」
 彼は短く答え、出ていった。
 しばらくして、透明袋に封入されたスマホが、同僚の手で運ばれてきた。封を切る手つきに、厳密さとためらいが混じっているのが分かって、胸がちくりとした。

 画面が点いた。
 通知が一斉に花開く。
 灯香、灯香、灯香——。着信履歴の赤い印が、容赦なく並んでいる。
 最初の一本が夜。次が深夜。朝方。昼過ぎ。
 わたしは、ひとつも、取らなかった。取れなかった。

 指先が震える。メッセージの返信画面を開きかけて、閉じた。開き直してようやく、一行だけ打ち込む。

「ごめんね」

 送信の音が小さく鳴り、すぐにまた世界が静まった。
 何をどう言えば良いのか、分からない。
 わたしが吐いた花のことも、病室にいることも——余命のこと、その後のことも。彼女の顔を思い浮かべるほど、言葉から遠ざかっていった。

第六章 消されたログ(灯香)