夜が明けても、詩織が帰ってこなかった。
 残業や急患で遅くなることはこれまでもあったけれど、絶対に「今日は遅くなる」「先に寝てて」くらいの連絡は来ていた。既読すらつかないままの画面が、不気味に沈黙している。
 嫌な予感は、もう疑いようがなかった。

 スマホを握りしめたまま、詩織の勤める病院の代表番号を叩く。コール音がやけに長く響き、ようやく繋がった先で口を開いた。
「榊詩織さんについて伺いたいのですが」

 短い間の後、冷たい定型文が返ってきた。
「大変申し訳ございません。ご家族様以外からのお問い合わせにはお答えできません」

 心臓を一突きされたような感覚だった。
 つまり、病院にいる。しかも「患者」として。
 けれど、同居人である自分には、その事実さえ教えてもらえない。

「……同居人なんです。緊急連絡先も、あたしで——」
「申し訳ございません。そのような情報は開示できません」

 どれだけこちらが食い下がっても、冷えきったマニュアルの文言が押し返してくる。壁に頭を打ち付けるような徒労感だけが残った。
 「家族ではない」——その一点だけで遮断される。

 スマホを握りしめた手がじっとりと汗ばんでいた。
 どうすればいい。何を知ることも、彼女に触れることもできない。

 せめて——。
 せめて着替えを届けるという、口実があれば。入院しているのなら、替えの下着やタオルは必要なはずだ。その理由を盾にして、詩織の部屋に足を踏み入れた。

 部屋に入ってすぐ、普段は何も置かれていない机の上に日記帳があるのが見えた。
 革の表紙に指を触れた瞬間、胸の奥で何かが軋む。
 覗いてはいけないものだと分かっていたのに、ページをめくる手は止まらなかった。 開いた頁には、詩織の癖のある端正な文字が並んでいた。

『隔離病棟の担当に回された。理由は「独身だから」。——書類の欄に未婚と記した一行のせいで』

 呼吸が詰まった。
 病棟で何が起きているのか、彼女がどんな理不尽を受けているのか——あたしは、何も知らなかった。いや、聞こうともしなかった。

『今日、灯香に入籍のことを切り出した。もしわたしが倒れたとき、せめて彼女に何か遺せるようにと思って。
 でも返ってきたのは、「子どもだってできないし」という言葉。正しいことだ。あの人は悪くない。だけど胸が裂けるように痛かった』

 喉の奥が焼けるように熱くなった。
 あの日の笑顔の裏に、こんな言葉があったなんて。
 泣きそうになりながらも「気にしないで」と取り繕った声色を思い出す。忘れられなかった視線。涙を押し殺して笑っていた理由が、今ここに書かれている。

 ページの下半分は、涙でインクが滲んで判読できなくなっていた。
 それがかえって、詩織の苦しみを生々しく突きつけてくる。

「……なんで、言ってくれなかったんだよ」

 震える声が、静かな部屋に落ちた。
 でも本当は分かっている。言わせなかったのは、自分だ。軽口で切り捨てて、向き合うのを避けたからだ。
 続く頁には、さらに追い打ちをかける言葉が残されていた。

『次はわたしかもしれない。それでも、灯香を巻き込みたくない。生きていてほしい。……そう願うのに、最後に思い浮かぶのはやはり彼女で』

 視界が滲んで文字が揺れた。
 詩織は、自分のことばかり案じていた。
 自分は——自分は一度でも、彼女を案じていただろうか。
 日記を握る指先に力がこもる。けれど、その震えを止めることはできなかった。

第五章 隔離の夢声(詩織)