デイルームの窓は、隔離病棟の内側にしか開いていない。消毒液の匂いが薄く漂い、壁際にはテレビの黒い画面と、誰も座っていないソファがきれいに並んでいる。
 点滴は取れず、酸素は回復傾向だけど、まだ吸入が必要。一方で病状が進行しなくなったことで体力が僅かに戻り、車椅子に座る訓練ができるようになった。だから、今日も車椅子をデイルームに押してもらったのだ。

 窓辺の丸いテーブルにスマホを置き、画面に映る過去の通話履歴を拡大しては戻す。数日前から、灯香の名前で止まっている。
 ため息は、声にならない。
 通話を切ったのは、確かわたしだった。あの時は、怖かった。灯香を巻き込むのが。——なのに、沈黙が続けば続くほど、わたしの方が追い詰められていく。

 その時、病棟の奥で「カン」と金具の触れる乾いた音がした。
 職員が出入りする側の扉ではない。新規の患者さんが運ばれてくる扉。
 思わず顔を上げる。ストレッチャーのキャスター音も、同僚たちの声も聞こえない。ただ重い蝶番の戻る音だけが、デイルームにこだまする。

 間に合わない鼓動を押さえるように胸に手を当て、扉の方へ向き直った。
 そこに——灯香が、立っていた。

 現実が半歩よろけた。視界の輪郭がいったんほどけ、また結び直される。
「……どうして、ここに」
 言葉は自分の喉を通り抜けるまでに、幾つもひびが入った。

 灯香は、以前と同じパーカーにジーンズ——なのに、どこか埃っぽい匂いを纏っていた。目は冴えていて、まっすぐで、少しだけ赤い。
「裏で、話がついた。——いや、つけられた、の方が正しいかな」
 軽口に見せかけた声は、かすかに震えていた。
「でも、来たよ。ここまで」

 わたしは彼女に手を伸ばし損ねて、テーブルに震える指先を置く。体の奥で、あのざわめきが形を変えた。
「駄目だよ、こんな所に来ちゃ……あなたまで巻き込まれる」
 そう言ってはみたけれど、目の奥が熱い。泣き方を思い出してしまった気がする。

 灯香は一歩、また一歩と近づいてきた。
「どうせ巻き込まれるなら、詩織の隣がいい」
 それは、言い訳でも挑発でもなかった。
「隔離でも、病でも、制度でも。——もう離されない所まで来たかったんだ」

 言い負かされる、という言葉は医師としては使いたくないけれど、今のわたしにはそれしかなかった。
 拒む理屈はいくらでも持っているのに、口に出す前に胸の奥がほどけてしまう。
「……どうして、そこまで」
「好きだから、では足りない?」
 灯香は、笑った。強がりの輪郭を残したまま、真ん中をやわらかくして。
「それに——あの夜、言ったろ。『同じように変われたら、今度こそ一緒にいられる』って。あの後さあ、口封じされそうになったから、言ってやったんだ。『詩織の腕の中で、花を吐きたい』——半分は皮肉だけど、半分は本音」

 視界が滲む。涙腺は痛むほど使い古したはずなのに、今のこれは別物だった。
 わたしは気づけば手を伸ばしていて、彼女の袖を掴んでいた。
 体温は、確かに生きている。
「……怖いの。あなたが同じ苦しみを背負うのが」
「うん。怖いよ」
 即答。逃げない言い方だった。
「でも、ひとりで怖がるより、ふたりで震えたい」

 ——その瞬間、胸の奥で何かが合図を交わした。
 夢の底で聞いた水音のような囁きが、はっきりと文になって浮かび上がる。
 ——最適。
 ——二人なら。

 病棟の空気が、僅かに色を変えた。気のせいだと言い切るには、あまりに具体的な、内側からの同意。
 髪の根元が、微かな陽光を吸い込むみたいにぬるくなり、血の巡りが静かに軌道を変える。
 灯香も、何かを感じたのだろう。息を飲む音が、近くで震えた。

 わたしは彼女の手を両手で包み、言葉より先に頷いた。
「……一緒に、生きよう」
 喉から漏れた声は、泣き声と笑い声のちょうど真ん中だった。
「花を吐かずに。別の形で。——二人で」

 灯香の指が、強く、でも乱暴ではなく握り返してくる。
 その握力の加減に、わたしは救われた。引きずらない、突き放さない。ただ、隣に立つための力。
「うん。選ぶのは、あたしたちだ」

 張り詰めていた何かが、静かにほどける。
 遠くでナースコールの音が鳴り、誰かが応答する声が続く。世界はいつも通りだ。
 でも、わたしたちの内側だけが、はっきりと変わった。

 寄生植物のざわめきは、恐怖ではなかった。
 それは祝福に近い——そう、思えた。
 わたしは涙を拭い、灯香の肩に額を預ける。
 彼女の胸の鼓動と、わたしの胸の鼓動が、ゆっくりと合っていく。

 ——最適。
 ——二人なら。

 夢で幾度となく聞いた言葉が、現実の輪郭を持ってここにある。
 デイルームの白い壁は変わらず白い。けれどこれから先の運命の色は、もうわたしたちが選ぶんだ。

第十四章 密やかな契り(灯香)