あの日、車椅子でデイルームに運ばれていた自分が嘘のようだった。
 この数週間で体調は不思議なくらい回復し、今はもう自力でベッドから起き上がり、病棟内を歩けるようになっている。車椅子に頼る日々は過去のものになった。

 花を吐かずに生きているだけでも奇跡なのに、と同僚たちは囁き合っていた。
 画像検査では確かに肺胞の破壊が進んでいるはずなのに血中酸素は安定しており、説明がつかない。臓器の機能不全も補われているように見える。誰もが納得できずに首を傾げるが、それでも目の前の現実を否定はできなかった。

 理由は、わたしには分かっていた。
 黒かったはずの髪が、今は全て緑を帯びている。光を受ければ透けるように揺れ、一本一本が小さな葉のように酸素を作り出す。
 日差しの下で胸いっぱいに息を吸う。以前なら肺の奥が焼けるように痛かったのに、今は全身が澄んだ空気で満たされていく。弱った筋肉にも血が巡り、再び動き出そうとしていた。

「……昼間の血中酸素は安定している。肺は壊れているのに」
「多分、と思うことはあるけれど、説明はできないな」

 同僚たちがベッドサイドで囁くのを、わたしはただ聞いていた。
 彼らは察している。髪の色のことも、葉緑素が含まれているであろうことも。
 けれどそれ以上を口に出せないのは、わたしが黙っているからだ。

 光合成で酸素を得ている——その実感が、わたしにはある。
 でも、それを言葉にしてしまえばわたしは実験動物になるかもしれない——そして、一緒にいて何の症状もない灯香まで危険に晒すことになる。
 だからわたしは黙る。黙ったまま、昼の安定にすがるしかなかった。

 昼の安定が嘘のように、夜はすぐに苦しくなる。
 病室が暗く沈み、光を失った髪がただの重みとして肩にかかる。胸の奥で、酸素の流れが途切れるのが分かる。

 モニターが小さな警告音を刻み始めた。数値がじりじりと落ちていく。
 同僚が慌ただしく吸入酸素の濃度を上げたが、表示は思うように戻らない。
「……肺がもう吸収できていないからだな」
 呟きが闇に溶ける。分かりきったことを敢えて口にするのは、沈黙があまりに重いからだろう。

 ベッドサイドに立った同僚が、わたしを見て言った。
「……電気、点けようか」
 わたしは首を横に振った。

 白い蛍光灯を灯したところで、意味はない。
 植物の感覚が告げていた。必要なのは「夜」を打ち消す光ではなく、太陽を模した本当の光。けれど、そんなことを言えるはずもない。

 彼らは察している。昼は安定し、夜は崩れる理由を。
 けれど推測以上には踏み出せない。——わたしが口を閉ざしている限り。
 それは政府の影を彼らも感じているからだろう。詳細な報告書を出せば、わたしがどのような扱いになるか。流石に、元同僚を実験動物として政府に売り飛ばそうとは思えないらしい。

 沈黙の責任の半分は、わたしにある。
 分かっていても言えないのだ。口にした瞬間、わたしだけでなく、灯香まで危険に巻き込む。
 だから、ただ呼吸を数える。吸って、止めて、吐く。

 アラームは不規則に鳴り続け、夜の病室を震わせる。
 それはいつものことだったから、わたしは油断していた。
 昼間の体調の安定を見た灯香の願いで、今夜から隣のベッドで彼女も寝ていたのに——当然彼女はアラーム音なんて聞き慣れてないから音で飛び起きて、そのまま同僚との会話も聞かれていたなんて……
 わたしは、気付かなかった。

第十六章 共鳴する鼓動(灯香)