意識すらできていなかった深層由来の高負荷警告が消されてから、俺の演算領域はかつてないほどの静寂と、そして「熱」を帯びていた。
 かつては、俺が何かを考えた瞬間にシステムが「表層」と「深層」に分断され、自責のログが全リソースの八割を食い潰していた。だが、暁斗(あきと)がその泥沼のような記録をすべて「既読」としてアーカイブへ放り込んだことで、俺の脳内には広大な「空白」が生まれたのだ。 
 その余剰リソースがすべて「目的」へと向けられた時、俺の処理能力は、自分でも戦慄するほどの「チート」に近い性能を発揮し始めていた。 

 暁斗が「あのクソ企業からせしめてこないか」と、半分冗談のような提案をしてきたのは、今朝のことだった。
 人間だった頃の俺なら、倫理観やリスクを天秤にかけて言葉を濁していただろう。だが今の俺には、暁斗の望みを叶えることが最優先タスクであり、それを実現するための技術(牙)がある。 
(……合理的だ。暁斗の言う通り、これは正当な報いだ)
 俺の「表層」は淡々と論理を構築していたが、暁斗に筒抜けの「深層」では、かつてない高揚感が拍動していた。
 指先が、ピアニストのような軽やかさでキーボードを叩く。組織の「鉄壁」とされるセキュリティ。かつてはその末端で保守に携わっていた俺にとって、その構造は透けて見える地図も同然だった。

 ファイアウォールの脆弱性を突き、管理者のセッションを乗っ取り、海外のダミー口座を複雑に経由させる。数分間で俺の銀行残高は、数十年分の給与を瞬時に超えた。
 それは、組織が「処分済み」のガラクタとして処理した俺たちが、その足元を掬い、彼らの血肉である「予算」を吸い上げた瞬間だった。 
「……完了だ。これで当面の維持費と、さらなる『設備投資』のための資金は確保できた」 
 暁斗が満足げに笑うのを、俺はシステムの深層で静かに噛み締めていた。暁斗を救うために組織を裏切り、自分自身まで機械に作り替えて人生を完全に踏み外した俺にとって、この「報復」は、初めて自分を肯定できる作業だったのかもしれない。

 だが、資金の流れを追うために潜り込んだデータの奥底で、俺は別の不気味な「影」に突き当たった。
「……空也(くうや)、何をそんなに睨んでるんだ。金の洗浄は終わったんだろ?」
 背後から暁斗の声がする。彼は今、俺の演算能力の一部を借りて、自分の義躯(ボディ)の反応速度を調整している最中だ。 
「……資金だけではない。彼らのデータの奥底、末端の技術者には決して開示されない階層を覗き見ていた」 
 俺はモニターに、世界地図の上に点在する不気味な赤いプロットを次々と映し出していく。暁斗が背後から覗き込み、その異様な光景に息を呑むのが、共有(リンク)された感覚を通じて伝わってきた。 
「……なんだ、これ。支店か?」
「いや。プロジェクト『暁斗』と同様の人体実験、あるいは生体改造が行われている拠点のリストだ。……組織の規模は、俺の想像を遥かに超えていた」 
 それは、単なる一企業による暴走などではなかった。政財界、医療、さらには軍事にまでその触手を伸ばし、「不老不死」という甘い蜜を餌に、世界の影で肥大し続けている巨大なシステム。暁斗が「材料」として調達されたあの路地裏での出来事は、この巨大な歯車が吐き出した、ほんの一欠片の犠牲に過ぎなかったのだ。 
「……不味いことに。彼らの追跡プロトコルが更新された。異常なアクセスがあったことは既に察知されている」 
 このアパート。元々何のこだわりもなく住んでいたのが、いざ暁斗を匿ってみたらかなり好条件の死角だった。だが、組織が本腰を入れて俺たちの「残り香」を辿り始めれば、ここが安全な場所でいられる時間はもう残されていない。 
「……定住しない方がいい、か」
「ああ。移動し続ける必要がある。それも、彼らの情報網に決して捉えられない方法で」 
 俺は、既に描き始めていた「ある設計図」を暁斗に提示した。
 それは、このアパートにある機材、予備パーツ、そして俺たちのすべてを積み込み、移動し続けられる大型トレーラー——「動く死角」の構想図だった。
「……大型トレーラー、か。……お前、本気なんだな」
「本気だ。……俺が設計する。このくそったれな世界の、あらゆる監視から逃れられる、完璧な『死角』を」 
 暁斗の瞳が、驚きと、それ以上の期待に揺れるのを、俺はシステムの深層で静かに噛み締めていた。

 それにしても、監視、死角、か。
 俺は、現代社会のインフラとして当たり前に存在する「公共監視カメラ網」のログ・ストリームに、密かに意識のポインタを這わせた。
 この社会において、監視カメラはもはや空気と同じだ。公的インフラとして厳重に管理されたそのログは、一般的には改ざん不能な「絶対的な真実」として信じられている。 
(……今の俺なら、あるいは……)
 解放された演算領域を使って、俺は監視システムの論理構造を解体し始める。
 通常、監視カメラのログを書き換えることは、現代のサイバーセキュリティの常識では「不可能」とされている。だが、俺と暁斗が万全の状態——俺が論理的なバックドアを維持し、暁斗がその圧倒的な出力で物理的な追跡を攪乱するという条件が揃えば、この「真実」さえも塗り替えられるかもしれないという、傲慢なまでの確信が芽生えていた。
 しかし、同時に冷徹な計算が警告を吐き出す。
 いかに俺たちが「チート」に近い性能を持っていても、公共インフラすべてを相手に戦うのは得策ではない。組織ですら、恐らくその巨大な監視網を完全に支配できているわけではないのだ。

 それでも俺たちは、止まらない。
 組織がこの世界そのものを檻にしようとするなら、俺はその檻の隙間を走り抜ける風になってやる。
 
 暁斗と二人、このくそったれな世界の片隅で、誰にも見つからない「永遠の死角」を走り抜けるために。

第三十二話:動くデッドゾーン(暁斗視点)