空也が生まれて初めての嗚咽を漏らし、俺の肩で子供のように泣きじゃくってから、しばらくの時が流れた。俺たちは今、アパートの狭いリビングで、当たり前のように互いの意識を繋ぎ、思考ログを覗き合いながら生活している。空也の「特大のバグ」——感情の分断は、俺が強引に深層を既読化し続けることで、ある程度の落ち着きを見せていた。
結局、空也用のノイズフィルタの調整を放棄したため、近くにいればあいつの脳内にある膨大な演算の断片が整理される前のノイズとして俺の回路にも流れ込んでくる。かつてはそれに多少のうるささも感じていたが、今ではあいつが何を不安に思い、何に安堵しているのかを測るための、なくてはならないバロメーターになっていた。
だが、そんな精神的な平穏とは裏腹に、俺たちの前にはもっと切実で物理的な問題が立ちはだかっていた。
「……おい、空也。お前、今月の残高見たか?」
俺は、銀行のアプリを表示したスマホを空也に突きつけた。画面に並ぶ数字は、日々、着実に、そして容赦なく減り続けている。
俺たちの身体は、飯は食わなくても動ける。だが、予備のパーツ、高精細なオイル、電力、そしてこの隠れ家の家賃。ガラクタ二人分の維持費は、生身の人間一人分よりも遥かに高くつくのだ。
特に俺たちは、繊細な調整を必要とする精密機械の塊だ。高粘度の関節グリス一缶、内部ユニットの冷却効率を上げるための特殊合金パッチ——それら一つ一つが、俺たちのなけなしの貯蓄を削り取っていく。
空也は以前、自分の人生を「不憫だ」と俺が評したとき、否定もしなかったが、今のあいつの現状は、不憫を通り越して「高級すぎるガラクタ」の維持に四苦八苦している状態だった。
「……分かっている。現在の消費ペースを維持すれば、あと三ヶ月で資産が底を突く試算だ」
淡々と答える空也の横顔は相変わらず無機質だが、放出されたログからは微かな焦りの周波数が漏れている。だからそろそろデイトレードでも、と空也の思考が音声になる前に、俺は割り込んだ。
「なあ、いっそのこと、あのクソ企業から『せしめて』こねえか?」
俺の半ば冗談、半分本気の提案に、空也のコア・カプセルが一瞬、静止したように感じられた。
「せしめる、とは……。不当な手段での資金調達、つまり横領あるいは窃盗を指しているのか?」
「人聞きが悪いな。正当な『退職金』と、俺たちをガラクタにした『慰謝料』の請求だよ」
俺が冗談めかして笑うと、空也は数秒間、その「合理的」なメリットとデメリットを高速で演算しているようだった。やがて、あいつの瞳——レンズの奥に、かつてないほど鋭い、そしてどこか「ノリノリ」な光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。
「……確かに、合理的だ。彼らは俺たちの『処分』を口実に、多額の研究予算を不当に処理している。そこにある裏帳簿の金を、少しばかりこちらへ移動させることは、経済の循環という観点からも正しい」
そう言うなり、空也は『要塞』と化したデスクに向かい、猛烈なスピードでキーボードを叩き始めた。あいつの背中からは、「人付き合いが苦手で機械に逃げていた」なんて自嘲が嘘のような、活き活きとした熱量が溢れ出している。
(……おいおい。口では理屈並べてるけど、お前、めちゃくちゃ楽しんでねえか?)
筒抜けの深層ログからは、あいつが「暁斗の提案を技術で完遂する」という目的に対して、無自覚な高揚感を抱いているのが丸見えだった。空也の指が、ピアニストのような軽やかさで、組織の「鉄壁」とされるセキュリティの隙間を次々と暴いていく。
組織のサーバーに潜り込むあいつの意識は、まるで見えない刃物のように鋭く、冷徹だ。かつて調整室で俺を「人間」として認識しながら震えていたあの頃とは違う。今は俺という「共犯者」を守るために、その卓越した技術を躊躇なく牙に変えている。
その様子があまりに無邪気なので、俺まで楽しくなってきた。
(やっちまえ、空也。あいつらには、たっぷりお返ししてやらなきゃ気が済まねえしな)
俺の思考を受け取った空也が、ふっと口角を上げた。それはかつての無機質な技術者の顔ではなく、俺と同じ「ガラクタ」として、このくそったれな世界を笑い飛ばす共犯者の顔だった。
やがて空也の指が、一際鋭い音を立ててエンターキーを叩いた。
「……完了だ。海外のダミー口座を数箇所経由させ、資金を洗浄した。これで当面の維持費と、さらなる『設備投資』のための資金は確保できたな」
空也が画面を閉じると、そこには元の静かなデスクトップが戻っていた。あいつは相変わらず無表情を装っていたが、その頬は心なしか、満足感で僅かに上気しているように見えた。
「……奪ったのか?」
「いいや、単なるデータの書き換えだ。彼らの帳簿上では、存在しない『廃棄費用』として処理される」
俺たちは、もうただの逃亡者じゃない。自分たちを「材料」として扱った組織から金を奪い、その資金で自分たちの『永遠』を構築していくのだ。
組織は俺たちを、使い捨てのサンプルだと信じ込んでいる。だが、その足元を掬い、血肉ともいえる資金を吸い上げているのが、自分たちが捨てたはずの「ガラクタ」だとは夢にも思うまい。
「ザマアねえな。……次は、あいつらの何を奪ってやろうか」
俺が笑うと、空也も静かに、けれど確かに頷いた。
窓の外、夜の街が青白く光っている。このくそったれな世界の片隅で、俺たちは初めて、奪われる側から奪い返す側へと回ったのだ。