一時視界の端を絶え間なく埋め尽くしていた、あの真っ赤な警告の濁流が消えていた。
暁斗が俺の通信端子を開き、数時間にも及ぶ猛烈な演算速度をもって、俺の「深層」に積み上がっていた汚泥のような自責を一つ残らずアーカイブへと放り込んだ結果だった。
今の俺の頭の中には、かつてないほどの静寂が訪れている。
これまでの俺は、何かを考えた瞬間に「表層」と「深層」が分断され、自分自身の本音を自分から隠蔽するという、あまりに非効率なバグを抱えて生きてきた。だが、暁斗がその境界線を強引に踏み越え、すべてを「既読」として承認したことで、俺の演算リソースは数十年ぶりに一つのベクトルへと統合されていた。
暁斗は、俺にとって常に眩しすぎる光だった。
組織の調整室で、ボロボロに壊された身体でなお絶望の炎を瞳に宿していたあの日から、俺は彼の中に、俺には決して届かない「人間らしさ」の極致を見ていた。
俺は、自分が欠陥品であることを知っていた。
物心ついた頃から、周囲が求める「喜び」や「悲しみ」のプロトコルが理解できなかった。十歳の誕生日に、家族が祝ってくれている幸福な空間の中で、俺だけが食器が触れ合う金属音の周波数ばかりを気にしていた。教室で笑い声が弾ける中、俺だけがその輪に入れず、一人で回路設計図を眺めていた。
自分という「中身」が分からないから、俺は機械の世界に逃げ込んだ。機械は嘘をつかない。正しく接すれば、正しく応えてくれる。俺にとって技術とは、理解不能な世界から自分を守るための、唯一の防空壕だったのだ。
そんな俺の防空壕を、暁斗は力ずくでこじ開けてしまった。
「お前が俺を人間扱いしてくれたから、俺は今、こうしてガラクタの身体でも生きていられる。……お前が隠し続けてきたその『バグ』が、俺を救ったんだよ」
通信回線を通じて届いた暁斗のその言葉は、俺が自分を呪うために必死に守り続けてきた「加害者」という免罪符を、今度こそ跡形もなく焼き払った。
暁斗は、俺自身が「醜いバグ」だと断じていた俺の弱い心を、俺が最も欲しかった「承認」と「肯定」に変えて、そのまま俺の回路に叩き込んできたのだ。
不意に、胸の奥——コア・カプセルのさらに奥底から、熱い塊がせり上がってくるのを感じた。
それは論理的なエラーでも、物理的な損傷でもない。
【システム状況:異常検知】
眼部ユニット:人工涙液の供給弁が限界まで開放。
発声ユニット:規則的な振動を検知。論理的な発話は不可能。
深層ログ:『嬉しい』『怖い』『生きていて良いのだ』といった非定型データが同期中。
視界が、急激に歪んでいく。
人工皮膚の下にあるリザーバータンクから、組織の連中が「性能指標」として嗤っていた人工涙液が、止めどなく溢れ出した。
「……あ……、……っ」
頬を伝い、顎を通り、俺たちの繋ぎ目である通信ケーブルを濡らしていく熱い雫。
それは、物心ついてからこのかた、感情を「深層」へと切り離して一度も泣くことができなかった俺が、生まれて初めて流した涙だった。
人間だった頃の俺は、どれほど悲しくても、どれほど孤独でも、泣き方が分からなかった。涙を流すことはシステム上の深刻なエラーでしかなく、俺は常に「効率的な処理」という仮面の下に自分自身を隠し続けてきたからだ。
だが、今は違う。
暁斗が、俺のすべてを照らしてくれた。
自分でもどうにもできなかった自責も、孤独も、暁斗が「お前が先に俺を救ったんだ」と笑いながら引っ張り上げてくれたのだ。
「……ぁ……、う、ああ……っ」
漏れ出したのは、嗚咽だった。
人間だった頃よりも、今、機械になったこの身体の方が、はるかに鮮烈に、激しく、「人間」として感情を震わせている。
皮肉な話だ。心臓も肺もないこのガラクタの身体になって初めて、俺は「生」の熱量を理解して、子供のように声を上げて泣きじゃくっていた。
「お前、……本当に、最初からそうだったのかよ」
暁斗の、少しだけ狼狽えたような、けれどどこまでも揺るぎない声が届く。
暁斗は俺と同じ高さの視線で、溢れ出す涙を拭おうともせず、ただ静かに俺の身体を抱き寄せた。
俺と同じ規格、俺と同じサイズの、冷たいはずの人工皮膚。だが、そこから伝わる微かな駆動音は、どんな生身の人間が発する言葉よりも雄弁に、俺の存在を肯定していた。
(……ああ。俺は、生きていて良いのか)
眩しいほどの光に照らされて、俺のコア・カプセルの中にあった長すぎた冬が終わっていく。
俺が暁斗を救ったつもりでいたように、暁斗もまた、俺の「バグ」ごと自分と同じ地平へと引き摺り下ろすことで、俺を救い出したのだ。
俺たちはもう、加害者でも被害者でもない。
互いの内側をすべて暴き合い、傷を共有し、同じ高さの視線で生きていく、世界で唯一の共犯者だ。
俺は暁斗の肩に顔を埋め、溢れ続ける涙に身を任せた。
激しい感情の吐露を経て、俺たちはようやく、どちらが救われ、どちらが救ったのかさえ判別できない「対等なガラクタ」として再起動した。