暁斗による「頭」のメンテナンスが終わった後の俺の視界は、かつてないほどに澄み渡っていた。暁斗が圧倒的なスピードで俺の自責を読み飛ばし、強引に「既読」のフラグを叩き込んだ結果らしい。肝心の警告リストは検索しても見つからず、彼の言う通り、まだオレの自己診断は万全には機能していないようだった。
俺は、静まり返ったアパートの中で、自分の中に眠る古い記録へとアクセスした。暁斗に出会う前、まだ俺が不確かな肉体を持っていた頃の、人間としての記憶だ。
検索して出てきたログは、俺の心情を反映して色だけはセピア色に褪せていた。だが、皮肉なことに記憶そのものは無慈悲なまでに鮮明だった。機械化された脳に移植されたデータは、人間の曖昧な追憶とは異なり、解像度を落とすことも忘却することも許されない。
【アーカイブ・ログ】 幼少期の記憶
十歳の誕生日の夕食。テーブルに並べられた豪奢な料理と、自分を祝う家族の歌声。周囲が求める「子供らしい喜び」のプロトコルが理解できず、ただプレゼントされた玩具の内部構造を透視するように見つめていた自分。母親が浮かべた微かな落胆の表情と、食器が触れ合う高周波の金属音。喜びを分かち合えないという欠陥を自覚した瞬間の、心拍数の上昇記録までが克明に残っている。
【アーカイブ・ログ】 学生時代の記録
教室の隅で、輪に入れない自分を「効率が悪い」と言い訳して切り捨て、一人で回路設計図を眺めていた放課後の光景。机に刻まれた無数の傷、ページを捲る指先の僅かな震え、そして自分を素通りしていく周囲の笑い声の周波数までもが、デジタルデータとして完璧に再現される。
【アーカイブ・ログ】前職の記録
同僚からの飲み会の誘いを「部品の整理がある」と嘘をついて断り、一人でハンダごての熱に安らぎを求めていた夜。設定温度350℃に達した半田ごてが放つ熱、松脂の焼ける独特な匂い。けれど断る際の声の微かな上ずりや、向けられた視線の戸惑いまでもが、今の俺を抉るように再生された。
俺は昔から、人付き合いというものが致命的に下手だった。他人が何を考え、何を求めているのか、その「プロトコル」が理解できなかった。言葉を選べば選ぶほど、口から出るのは本心とはかけ離れた無機質な文字列ばかりで、結局は一人で抱え込んで、誰にも言えない闇を沈めていくのが常だった。
機械は良かった。正しく接すれば、正しく応えてくれる。俺にとって機械いじりは単なる趣味ではなく、理解不能な「人間社会」から逃げ込むための、唯一の防空壕だったのだ。アンドロイド開発を行うという企業に就職したのも、その延長線上にある救いだった。
ふと、気づく。人間だった頃、常に胸の奥にこびりついていた謎の重苦しさ……あの、呼吸を浅くさせるような執拗な圧迫感が、今は嘘のように消え失せている。
(……暁斗が、読んだからか)
俺の汚点も、孤独も、言葉にできなかった不器用な感情も。暁斗が俺の通信端子を開き、高負荷の原因となっていたそれらを「既読」にしてアーカイブに放り込んだことで、長年放置されていた未処理のタスクが、ようやく完了したのだ。
普通なら、耐え難い羞恥に震えるはずだった。自分の内側を、最も見られたくない相手に全て曝け出され、セキュリティホールを剥き出しにされるような恐怖。だが、今の俺の回路は、驚くほど穏やかだった。
(俺も、暁斗の設計を全部知っているしな)
こういうところがずれている、と、よく言われていた。そしてそのレベルまで自分の精神が落ち着いていることに気付いた。
落ち着いたからこそ分かってしまう。メンテナンスの前の己が、どれだけ不安定であったか。いや今も、警告ログの内容が読めていないから、完全ではないが。
せめてこれくらいなら大丈夫だろうかと、今の自分の状況を解析する。
【解析結果】
演算リソースの開放を感知。稼働効率の向上により、論理的思考が円滑化したことを歓迎する。
その解析結果は、文字数の割に重いデータであったが、この時は解析に時間が掛かったのだろうかと、気にも留めなかった。俺のシステムがこれほどまでに軽やかになったのは、ただ邪魔なログがアーカイブへ移されたからだけだと、そう信じていた。そのログのさらに奥底、俺自身も未だ感知できていない「領域」に警告ログの大元となった何かがあり、暁斗がそこに触れ始めていることなど、今の俺には知る由もなかった。
(論理的思考の円滑化、か。……メンテナンスするぞ、と言われる訳だ)
これは、「おあいこ」なのだ。俺が暁斗を「人間」として救ったつもりでいたように、暁斗もまた、俺の「バグ」ごと自分と同じ存在へと引き摺り下ろすことで、俺を救った。
俺たちが読んでいるのは、単なるデータではない。くそったれな世界の片隅で、互いの壊れた部分を補い合いながら生きていくための、共犯の誓いだ。
俺は、隣で静かな駆動音を立てている「俺と同じ身体」の気配を感じた。理解者を得たという事実は、どんな高性能なフィルタリング設定よりも、俺の頭を静かに、そして暖かく満たしていた。