通信ケーブルを通じて流れ込んでくる空也の思考ログは、整理しても整理しても、底が見えないほど深かった。俺は仮想空間の中で、膨大な赤い警告の山を片っ端から「既読」に変え、アーカイブへと放り込み続けていた。
「……おい、空也。お前、本当に効率の悪い頭の使いかたしてんな」
思わず現実の口からも呆れた声が漏れる。端子を繋いでいる空也の身体が、微かな駆動音を立てて反応した。
「そんな、ことは」
「あるんだよ」
俺が今開いているのは、あの日、このアパートでこいつが睡眠薬を飲んで倒れた時の記録だ。こればかりは、何度アーカイブしても定期的に警告リストに舞い戻ってくる。
何度も同じログを周回していたら、奇妙な事実に気付いた。この男の記憶システム、よく見たら「表層」と「深層」という二重構造が存在していた。だというのに、空也の演算プロセスを観察していると、こいつの意識は、常に「表層」の上だけを滑っている。その直下にあって警告を吐き出している「深層」のデータについて、一度として参照した形跡がないのだ。
【同居生活:睡眠薬事件直前のログ】
表層:暁斗に生死の選択権を譲渡する。合理的なリスク管理。俺が死ねば、彼は自由になる。俺が機械になれば、永続的なメンテナンス体制が確立される。これは被験者にとって二進法的な解決策であり、現時点での最善の提示である。
深層:怖い。独りになりたくない。彼を失うくらいなら、いっそ俺も地獄へ連れて行ってほしい。でもそんなこと、口が裂けても言えない。だから彼に選ばせよう。俺の醜い欲望の責任を、彼に押し付けよう。頼む、俺を独りにしないでくれ。
「……っ、……お前、……」
俺の演算ユニットが激しいノイズを立てた。
あの日、あいつは「好きにしろ」なんて突き放したような顔で倒れた。その裏で、死ぬほど怯えながら、俺に「行かないでくれ」と泣き喚いていたのだ。言葉にも、表情にも、そして「自分自身の自覚」にさえ出さずに。
「空也。お前、あの時……倒れる直前、『俺を独りにしないでくれ』って思ってたんだろ」
俺の指摘に、空也のコア・カプセルから微かな困惑のノイズが走った。
「……? そんなはずはない。……俺はただ、君に選択肢を提示しただけだ」
「嘘をつけ。……なら、自分のログを検索してみろよ。今の同期状態なら、お前だって自分の全記録にアクセスできるはずだ」
俺は敢えて、空也自身に自分の「深層」を覗かせようとした。
通信回路を通じて、空也が自分の記憶領域をスキャンするのが分かる。意識のポインターが、高速で過去のログを巡っていく。俺はそれを、息を呑んで見守った。
「……検索した。だが、やはり君の言っているような記述は存在しない」
空也の声は、静かだった。
俺の視界には、そのすぐ下で真っ赤に脈打つ『独りにしないでくれ』という悲鳴が、嫌というほど鮮明に映っている。だというのに、空也のポインターは、その一行手前の「合理的な判断」という表層ログを何度かなぞっただけで、何もなかったかのように停止した。
……スルーした。
こいつ、本当に、自分の心の底にある『本当のこと』を、物理的に無視しやがった。
「……記述がない、だと? そのすぐ下にあるだろ、お前の……」
「記録されているのは『選択権の譲渡』と『状況の最適化』だけだ。……暁斗、君はやはり少し疲れているのではないか? 俺の思考ログを、過剰に読み替えているようだ」
愕然とした。
こいつにとっての悲劇は、自分の内側にこれほど感情深い思考を抱えていながら、それを自分自身で一度も認識できていなかったことだ。
空也は「表層」にある冷淡で合理的な自分こそが、糸蔵空也の全人格だと信じ切っている。そのすぐ下に、俺を救いたいと願って震えていた本心が眠っていることに、こいつはこれっぽっちも気づいていない。
(……嘘だろ。これ、生まれつきの特大バグじゃねえか)
深層にアクセスできないまま、表層の言葉だけを「事実」だと思って口にし、自分を「冷酷な加害者」だと断じてきた。それがこの男の、救いようのない孤独の正体だったのだ。
「……お前の『口下手』ってのは、ただ言葉が出ないんじゃなくて、自分の本当の気持ちに自分自身が気づけてないせいなんだな」
「……言っている意味が分からない。……俺は、俺の考えていることを、そのまま口にしているだけだ」
分からない、のだ。俺には見えているこの眩しいほどの深層が、本人には一切見えていない。
だからこそ、こいつはあの日、睡眠薬を飲んでまで自分を「処分」させようとした。自分の深層にある『暁斗の隣にいたい』という願いに気づかないまま、表層の『俺がいなければ暁斗は自由になれる』という論理だけを正解だと信じて。
俺は愕然としたまま――この家で同居を始めてからのログを掘り起こした。
【同居生活:メンテナンス指導時のログ】
表層:暁斗にメンテナンス技術を継承する。自己修復能力の向上は、プロジェクトの長期安定稼働に不可欠だ。俺が死ぬ、あるいは認知症を患うなどの不測の事態に備えた、合理的なリスクマネジメントである。
深層:俺がいなくなったら、彼はどうなる。誰が彼の隣にいて、誰がその壊れた心を直してやれるんだ。……怖い。彼を独りにしたくない。俺が人間である限り、いつか必ずその日は来る。……どうすれば、ずっと、彼を守っていける?
「お前……。メンテナンス教えてた時だってそうだよ。『リスクマネジメント』なんて言いながら、頭の中じゃ俺が独りになることばっかり怖がってたじゃねえか」
俺の指摘に、空也は不可解そうに、僅かに首を傾げた。
「……言っている意味が分からない。将来的にメンテナンスが滞れば、君の機能が損なわれるのは明白な事実だ。……俺は、俺の考えている合理的な懸念を、そのまま口にしているだけだ」
本気で、そう思い込んでいる。
俺の視界には、剥き出しの「深層ログ」が鮮明に映っている。そこには言葉にできないほどの恐怖と、俺を想う切実な本音が記録されているというのに。
俺はさらに過去へと、あの組織で「処分」が下された日の記録まで遡った。
【組織時代:視察・処分宣告時のログ】
表層:オーナーによる廃棄命令を受理。処分プロセスを開始する。手続きに不備がないようシステムログを偽装し、物理的な隠蔽工作を行うことが、現時点での最善の処理である。
深層:間に合った。……「処分」なら、彼を連れ出せる。俺の手で彼を殺さずに済む。怖い。もしバレたら。もし彼が、俺を拒絶したら。……それでも、彼をあんな冷たい場所で終わらせたくない。たとえ恨まれてもいい。彼を、生かしたい。
「……空也。お前、あの時だってそうだ。なんでそんなに必死に俺を救おうとしたんだよ」
そこで初めて、空也のポインタが「深層」に掠りかけた。彼は眉根を寄せて、でも結局、そこで止まってしまった。
「……必死だったのか?」
「……分かった。もういい。……お前が自分のこと分かってねえなら、俺が全部読み取ってやる」
俺は、加速する演算速度をもって、さらに過去の階層の「既読」作業を続けた。
こいつが認識できていない「深層」のすべてを、俺がアーカイブにして突きつけてやる。自分自身にさえ隠していた、その歪で真っ直ぐな執着を、思い知るまで逃がしてやるつもりはなかった。