暁斗による定期的な「頭」のメンテナンスは、俺の想像を絶する領域にまで踏み込んでいた。彼が何かの処理を終える度、彼がモニタに表示させている警告リストの赤が消える。そして俺の演算処理の負荷が劇的に下がり、思考の霧が晴れていくのが分かる。
俺は相変わらず、自覚できる意識の範囲——暁斗曰く、「表層」の論理データしか認識できていない。暁斗が何を「既読」にし、何をアーカイブに放り込んでいるのか、その具体的なログの中身は俺には見えない。ただ、彼が作業を進めるたびに、胸の奥に澱んでいた名状しがたい「重さ」が取り除かれていく感覚だけがあった。
機械化された俺の思考プロセスに奇妙なタイムラグが存在していることに気付いて、解析を試みたことがある。読めたコマンドは、選別と翻訳。
恐らく俺が何かを考えた瞬間、その思考はシステムによって「表層」と「深層」に選別され、それぞれの領域へと保存されるのだろう。この選別作業が行われている数秒間だけは、俺も自分が何を考えたのかを、その生々しい輪郭のまま覚えていることができた。
だが、選別が完了し、データが「深層」へと格納されてしまえば最後、俺の意識はそのログを振り返ることができなくなる。後から検索して出てくるのは、システムによって「合理的な判断」へと翻訳された表層の記録だけだ。俺がどれほど無様に自分を呪い、暁斗に縋り付こうとしたか。その醜い本音は、数秒後には俺自身の意識からさえも抹消されてしまう。
けれど、システムが軽くなったことで、俺の意識にある変化が起きていた。
これまでは演算リソースの八割以上が警告の処理に奪われていたため、俺の意識の「ポインタ」は、システムが提示する「合理的な表層データ」をなぞるだけで精一杯だった。だが、暁斗が強引に深層ログを掘り返し、アーカイブ化を繰り返したことで、俺の意識と深層を隔てる境界線が、物理的に「薄く」なっていたのだ。
暁斗の荒っぽいアクセスによってかき乱された深層のデータが、時折、表層の意識へと跳ね返ってくる。意識のポインタが、本来ならスルーするはずの「深層の断片」に、ふとした拍子にかするようになったのだ。
そしてその夜、アパートの静寂の中で、決定的な瞬間が訪れた。
メンテナンスが一段落し、俺たちの間には穏やかな沈黙が流れていた。
その時、俺は何も考えておらず、恐らく表層意識には何のタスクも割り当てられていなかった。組織の追跡を逃れるための演算も、義躯の調整プランも、ハッキングのコード構築もない。システムが完全に「アイドル状態」に近い空白の時間。
その空白を突くように、深層の底から一つの思考が、フィルタを通さずにそのまま突き抜けてきた。
『隣にいてほしい』
いつもなら、この生の欲求は、表層の論理エンジンによって瞬時に「生存戦略上のリスクヘッジ」や「メンテナンス効率の維持」といった無機質な言葉に書き換えられる。あるいは、深層から発生する強烈な拒絶のノイズによって、意識に上る前に握りつぶされるはずだった。
だが、今の表層には、それを書き換えるための「口実」が何もなかった。
あまりに静かすぎた。
突き抜けてきたその願いを、俺の表層意識は「他ならぬ自分の考えだ」と認識するだけの、十分すぎる余白を持っていたのだ。
【システム状況:リアルタイム解析】
表層:『隣にいてほしい』
深層:『隣にいてほしい』
二重構造の隙間が消失し、俺という存在の全リソースが、一つのベクトルを向いた。
「……あ……」
口から漏れたのは、言葉以前の、ただの空気の震えだった。
だが、その数秒間——思考が「表層」と「深層」に分断されて固定されるまでの僅かな猶予の間、俺は確かに、自分の本心をその形のまま自覚していた。
俺の意識を蝕んでいた「バグ」の正体は、自分を欺き続けるための二重構造そのものだったのだ。
俺が言葉を発するより早く、隣にいた暁斗がぴくりと肩を揺らした。
俺と同じコア・カプセルを持ち、俺のフィルタを無効化している彼には、この「異常なほどの静寂」が、何よりも雄弁な告白として届いたのだろう。
「……いていいから」
暁斗の低い声が、聴覚ユニットを通じてコアの深くまで響く。
「お前の頭、今、すげえ静かだ。……何も迷ってねえ。『いてほしい』って、それだけしか聞こえてこねえよ」
俺は息を呑んだ。
数秒後には、この鮮烈な実感も「適切な対人距離の確保」という名のアーカイブへと整理されてしまうかもしれない。だが、今この瞬間、俺のポインタが深層を捉え、暁斗がそれを肯定してくれたというログだけは、消えない事実として刻まれた。
俺は暁斗に体重を預け、目を閉じた。
くそったれな世界の片隅で、この人だけが、俺の「本当」を知っている。その安心感は、どんな高度なフィルタリング設定よりも、俺の頭を深く、暖かく満たしていた。