寝付けず、吐き気に耐えていたら、床頭台で充電していたスマホが震えた。
 灯りを落とした病室に、液晶の光が小さく浮かぶ。
 相手の名前を見た瞬間、胸がひゅっと縮む。——灯香。

 受けるべきか迷った。こんな姿を知られたくない。
 でも、拒んでしまったら、もう二度と繋がらないかもしれない。
 震える指先で通話ボタンを押すと、電波越しに彼女の声が飛び込んできた。

「……詩織? 聞こえる?」

 呼吸を整えるのに必死で、すぐには言葉が返せなかった。
 やっとの思いで、かすれた声を絞り出す。
「……うん、聞こえてる」

 灯香はホッとした声音で、早口になった。
 研究所での遺伝子操作。リークされた種子。飛沫感染の拡大。政府の隠蔽。
 断片を繋ぎ合わせて描かれた因果の地図を、彼女は一気に語った。

「そして——寄生植物は、宿主にいろんな植物の形質を発現させられるはずなんだ」

 その一言で、胸の奥が跳ねた。
 夢の声が、イメージが一気に蘇る。指先から芽吹く葉。緑に変わる髪。胸に震える蕾。
 ——吐くのは、間違い。選ぶのは、おまえ。

 込み上げる吐き気が唐突に強まり、全身が震えた。喉の奥が熱を帯び、花弁がせり上がろうとする。
 でも、深く吸って、止めて、吐く。患者さんに教えてきたあの呼吸を、自分に言い聞かせる。
 ——吐くんじゃない。別の形に。そう——髪に、緑を。

 胸の奥で燻っていた熱と不快感が、不意に嘘のように引いた。吐き気が完全に引くのは、どれだけぶりだろう?

 ゆっくりと顔を横に向け、自分の髪を確認する。
 そこには、確かに。髪の一房が、元の黒とは違う色合いを帯びていた。

 初めて——花を吐かずに、別の変化を起こせた。

 胸が震えた。恐怖か、希望か分からない。
 けれど確かに、わたしの中で何かが芽吹いたのだ。
 モニターに、何か異常があったのだろう。慌てたような足音、開かれるベッド横のカーテン、点灯される室内灯。完全防備の同僚の、呆然とした声。
「……榊先生、その髪……」

 慌てて隠そうとしたけれど、もう遅かった。室内灯の下、わたしの髪は明確に緑を纏っていた。更にそこから、温かい何かを——光合成によるエネルギーを、感じる。

 同僚はしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく呟いた。完全に、医師としての——理系の口調で。
「……こんなケース、初めて見ました。もしかしたら——花を吐きさえしなければ、隔離解除の可能性があるかもしれません」

 その声には期待と戸惑いが入り混じっていた。
 わたし自身も同じだった。希望だと思いたいのに、未知の変化に震えが止まらない。

 スマホの向こうで、灯香が声を弾ませる。
「やっぱり! 詩織、何か掴んでたんだ……!」

 胸の奥で蕾のような鼓動が高鳴った。
 吐き気と苦痛に覆われていた病室で、初めて希望が見えた。

 ——吐かずに、生きられるかもしれない。

 まだ確信には遠い。
 けれど、この小さな芽吹きが未来への扉を開けるのかもしれないと、そう思った。

第十章 過剰なる愛(灯香)